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東條英機について

このアカウントでは主に東京裁判に関連する人物について書いているが、教科書にものっている東條英機についてはまだ紹介していなかった。
そこで今回は東條英機を紹介する。
(今回サブタイトルがないのは単に思いつかなかっただけです。すみません。)


1.生涯

1884年、東京府麹町で生まれる(東條を岩手出身と誤解される方が多いですが、父が岩手出身なだけで本人は東京出身です)。
1905年、陸軍士官学校(17期)を卒業。
1937年、関東軍参謀総長に就任。
1938年、陸軍次官に就任(板垣征四郎陸相のもと)
1940年、陸軍大臣に就任。日米開戦の議論となると開戦派の東條(陸相)と和平派の近衛(首相)が対立する。
近衛が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と言うと東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と言った。
結局日米和平は暗礁に乗り上げ、近衛が首相を辞任(逃げ出した)。
1941年、内閣総理大臣に就任。このまま開戦へ一直線かと思われたが、外務大臣に和平派の東郷茂徳を置き和平派に配慮(どちらかと言えば昭和天皇への配慮)を見せた。しかし交渉は決裂、日米開戦に至った。
初期は英米を圧倒していたが、ミッドウェー海戦をきっかけに負けを重ねるようになる。絶対国防圏であったサイパン島が陥落すると、嶋田海相と共に辞任(というより辞めさせられた)。
1945年、日本が降伏すると戦犯として逮捕される。その時、拳銃自殺を図るも米軍の懸命な治療の末一命を取り留めた。
東京裁判で死刑判決を受ける。
1948年、刑死。

2.東條英機についての個人的な意見(考え)

最近、東條は悪くないとかいう人をよく見かけるが、私はそうは思わない。
当然東條だけの責任ではないし、完全否定する気はないが全く責任がないというのは嘘ではないだろうか。東京裁判があったから死刑になったのだという人もいるが、私は国民が作った弾劾裁判だったとしても東條は死刑になっていたのではないかと考えている。支那事変(日中戦争)の停戦に断固反対をしたのは東條。
勝てるはずもない(当時の統計でも出ている)大東亜戦争を始めたのも東條である。
この行動が無かったら何人の命が救われたか、想像がつかない。
(これはあくまで私の意見なので、これは違うとかがあったらぜひコメントでお書きください)


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