棘(とげ)
ハートデザインのネックレスを人差し指でチョンと弾いてみた。
私は今から別れを告げに行く。
彼とは付き合って一年半ほど経ったが、実際に会えた日数は1ヶ月分もなかったような気がする。
勝負の世界に生きる彼はとてもストイックだった。
レースの為に日本中を飛び回り、休みの日でもトレーニングをしていた。
「どうしても身体を追い込みたいから会うのは、また今度にしてほしい」
とデートをドタキャンされた時のことは、今でも忘れられない。
物事はハッキリ言う性格。
でも、真面目で一生懸命な彼が好きだった。
私の頭を撫で、目を細めて笑う顔が好きだった。
無駄な筋肉が一つもない、鍛え上げられた身体がとても綺麗だった。
競輪選手という彼の職業が嫌いだった。
「会いたい」
「寂しい」
その言葉を私はずっと投げ続けた。
すると彼は言った。
「今の時期が大事なんだ。由美の仕事とは違うから」
「由美の仕事とは違う…」
その一言は小さな棘となり、私の身体の奥深くに突き刺さった。
私だって大学を卒業し、保育士として3年間必死で働いてきた。
園児、保護者と向き合い続ける日々。
行事や毎月のお便りなどは、家に持ち帰ってまで 作成していた。
私だって戦っていんだ。
でも、大歓声を浴び世間からも注目されるような彼に対して、どこか引け目も感じていた。
しかし、身体の奥に刺さった棘はほかの誰でもなく、自分でしか抜けないことに気づいた。
だから、私は別れを決心した。
今日、海外協力隊としてフィリピンへ旅立つ。
任期は2年。
彼を忘れるにはちょうどいい時間だ。
大学在学中に保育士というスキルで、海外でも活動できることを知った。
その日は真っ青で綺麗な空だった。
私は自分の可能性と重ねる想いで青く広がる空を見上げ、胸が高鳴った。
大学を卒業後、地元の保育園に就職。
業務に追われ日々の忙しさでいつしか、その高鳴りは忘れてしまった。
でも、彼が思い出させてくれた。
競輪のレースではゴールまで残り一周半のバックストレッチラインを先頭の選手が通過すると、打鐘と呼ばれる鐘の音が鳴る。
ジャーン、ジャーンという音とともに、先頭を走る彼の姿は一生忘れないだろう。
屈強なライバル達を置き去りにして走る姿は、大袈裟ではなく、この世の誰よりも速く、強く、そして勇ましい存在に思えた。
今日は目一杯の感謝を込めて、「ありがとう」と伝えたい。
鏡の前には白ニットの上着に細めのデニム姿の私が写っていた。
シンプルなコーデの仕上げに、紺のジャケットを羽織る。
ナチュラルブラウンのショートボブを手で一度撫でてみた。
「よしっ」と鏡の中の私が言ったのを見届けてから、トランクケースを手に取り玄関へ向かった。
「いってきます」
「気をつけてね。何かあったら、いつでも電話してね。いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
母の温かい言葉とは正反対に、ドアノブは少し冷たいなと思いながら玄関を出た。
4月初旬の朝の空気は、やはりまだ肌寒かった。
見上げてみると、あの時と同じような透き通る青空が広がっていた。
「ジャーン」
「ジャーン」
打鐘の音を思い出しながら、私は意識して力強く歩き始めた。
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