感想『ドラゴンボール超ブロリー』――孫悟空神話になる
僕は今作を公開日に見に行って、そして思ったんだ。
「もうドラゴンボールを扱える人間はいなくなってしまった」と。
内容はジャンプ映画としてだけでなく『未来のミライ』とかの原作キャラに頼らないタイプの2時間アニメと比べても引けを取らない構成だし、バトルの迫力は劇場版仕様ときたもので、中々に面白い出来だった。でもどこかに、上記のような寂しさを感じた。寄る辺がないような。
今作で注目のポイントは狂気的なブロリーが純粋な性格になっていた点だろうが、ならば何故ブロリーを敵にしたのだろう。新キャラではだめだったのだろうか。いくつかの『Z』映画が完全に無かったことになる思い切ったストーリーの再編もみられたが、そこまでやる意義があったのだろうか。
バトル描写は豪華で白熱したこれぞ劇場版と思える出来だったが、ブロリーの性格変更に伴ってかつてのような差し迫った緊張感はない。まるでフェアプレーのスポーツ観戦だ。順を追って強力な変身に切り替えていく演出はワクワクする熱さもあるものの、挑戦者を迎えるチャンピオンの余裕ある姿を思わせる。悟空とベジータには完全に余裕があって、後半ピンチに陥りはするが、やはり緊張感という点ではオリジナルに及ばない。
ブロリーの最大の魅力を怖さと緊張感だと思っていた僕としては、そこがどうにも気になった。
でもね、少し考えてみよう。最後の可能性が高い映画『ドラゴンボール』で、どのような敵とのどのような戦いであれば満足できるのかを。僕たちみんなの期待と思い入れを受け入れられるオリジナルの新キャラクターとは、一体どのような奴なのかを。そんな奴が果たして、存在できるのかを。
個人的に合体ザマスのビジュアルは好きだったけど、スタッフは奴をラスボスにはしなかった。新キャラには必然的にそれ以上のカッコよさが求められてしまう。ジレンはDBらしいシンプル型だったが、魔人ブウのようなシンプルな造形は、現役の鳥山明が「ボスはこいつです」と言い切ったからこそ受け入れられたのだ。ほかのスタッフや、一線を退いた原作者の出すシンプルあるいはオマヌケ路線のデザインでは、今更『ドラゴンボール』のラスボスは務まらないだろう。
強さにしてもそうだ。『超』では覚醒によるインフレを極力控え、悟空の地道で自然なパワーアップに重点を置いてきたように思える。それは今作において「身勝手の極意」が一度も出てこなかったことにも現れているが、強大な悪との戦いになれば覚醒展開は避けて通れないだろう。
地球のことは二の次で、強敵との戦いを楽しみたい。どんな強敵に負けないよう鍛錬したい。そういった悟空の意思を尊重することが『超』のテーマであったことはTVシリーズ完結時に書いたが、その望みとストーリー上の必然性との相乗りは、原作ブウ編の時点で既に維持できないところまで来ていた。悟空のユルさを維持したままで地球の命運をかけた戦いをやってもらうのは限界なのだ。
本人がやりたいことと、ファンが求めることが乖離していくことはよくある。それはなにも人間だけではなく、よくできたキャラクターにとっても同じことなのかもしれない。皮肉なことに、悟空は活き活きとしたキャラクターであるがゆえに、『Z』の作品世界には合わなくなっていた。
つまるところ、ビジュアル面でも強さやストーリーの面でも、ラスボスは最早出せないのである。いたとしても、登場させて戦わせるのは非常に困難で、とても2時間では仕上がりそうにない。『ドラゴンボール』とは、もうそういう作品になってしまっている。このビッグタイトルは、もはや誰にも扱えないのだ。
幸いなことにキャラクター人気のある『DB』ならば王者の防衛戦のような形式のバトルにしても成り立つ。そしてそんなラスボス不在の状況の中で、せめて視聴者が喜ぶ話題性のある対戦カードをということでブロリーが選ばれたのだろう。
しかも原作世界にパラレルワールドが存在し、既に『超』によって『GT』が無いことになっていたことも追い風になったと予測できる。旧TVシリーズと完全に別の世界にすることのハードルは比較的低い。今回の改変はきっとそういう経緯だったのだろう。
そしてちょっとしたファンサービスのあるラストシーンについてだが、ここで考えておきたいのが、あのシーンによって未来に向けて何が開かれたのかだ。それが『Z』のアニメシリーズ屈指の人気悪役だったブロリーのストーリーを改変してまで、今作でが実現したかったことである。
つまり今作の意義とは、悟空にライバルを授け、更に僕らの期待から解放するということだったのかと思う。肩の荷を下ろして、ワクワクするライバルと戦ってもらうわけだ。
ベジータはスパーリングパートナーとしては良い相手だが、やはり今でも悟空を追う立場にある。それはフリーザとの関係も同様だ。一方ビルスやウイスはメタ視点の存在であって、それこそ作中世界の到達点である。すぐには到達できない領域だ。身勝手の極意をモノにさせていないのも、それをやってはジレンは勿論のことビルスにも勝ってしまいかねないためだろう。
『超』が悟空の希望を叶えるための作品であると捕らえるなら、まだできることがあるといえる。今の悟空に丁度良いライバルを授けることだ。それが今作のブロリーに繋がっていったように思える。
そして今作は、『DB』という作品が最早誰の手にも扱えない、文字通りバトル系少年漫画の神界に至った作品であることを示した。孫悟空というキャラクターは列聖されたのである。だからジャンプ漫画としての正当な「倒すべき悪としてのラスボス」はもう誰にも作れない。『DB』のお話はこれからも続けられるが、それは強大な悪との地球の未来をかけた壮絶全力ギリギリの攻防ではない。それを感じ取ったからこそ僕はもの悲しさを覚えたし、孫悟空というキャラクターは視聴者の期待から解放された。『GT』で悟空を消滅させなくては成せなかったことを『超』はやったのである。
お疲れ孫悟空、でもちょっと寂しいな。
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コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。