「個性」という言葉は使い方次第
私は言語聴覚士として、児童発達支援施設に勤務している。
そこは、自閉症やADHDなどのいわゆる発達障害と診断された子や、まだ診断名はついていないグレーの子も利用する。
発達障害というのは、環境とのミスマッチから学びや生活に困難が生じる、生まれつきの脳機能の障害だ。
この、環境とのミスマッチというのは、障害の社会モデルといわれる考え方。
このモデルでは、社会や環境のあり方や仕組みが障害を作り出しているという捉え方をする。
例えば、車椅子を利用している人にとって階段など立って移動しなければいけない場所において障害にぶつかってしまう。
平らな道では問題なく移動できるため障害はない。
このように、障害のない人を前提に作られた社会の作り方に原因があるいうのが社会モデルだ。
一方で障害の個人モデルもある。
足が動かせないなどの個人の心身機能が原因で障害や不利益・困難があるという捉え方。
こちらでは、障害を解消するためには、立って歩けるようになるためのリハビリなどによる個人の努力が必要と考えられている。
別名、医学モデルとも言われ、医療・福祉の領域。
理学療法士、作業療法士、私のような言語聴覚士はリハビリ職なので、こちらの考えに基づいて従事していることが多い。
発達障害は個性?
では、社会モデルの考え方でいくと、発達障害は個性と捉えるのか?
この問いへの答えが、とても秀逸だ。
特性がプラスに働く環境にいられるのであれば、『個性』と呼ぶ。
マイナスに働く環境にいるのであれば『障害』と表現して困り感を周りに伝える。
社会の障壁は、社会で解決する必要がある。
環境は「自分だけが努力してよくしていくもの」でも、「誰かが良くしてくれるもの」ではない。
みんなで良くしていくものであると考えるのが重要だ。
ここである事例をあげたい。
字を書くという困り感を抱える(発達性読み書き障害)の我が子のために、母親が学校に配慮を求めた。
それは、授業やテストでPCを使ってタイピングをさせてほしいという内容。
しかし学校側は、
「うちはそれぞれの個性を大切にしているので、特別扱いはしない」
という理由で断った。
これを聞いてどうだろうか。
タイピングを行えば、授業のメモもとれるし、テストも受けられる。
なのにも関わらず、「字が書けない」というだけでノートもとれずテストも0点。
明らかに学校の考え方がその子にとって学ぶための障害になっている。
これを見て憤りを感じる人もいると思う。
でも、今の日本はこの学校のような考え方の方が多いのが現実だ。
似たような事例は星の数ほどある。
『配慮』を求めるなら支援級か支援学校へ。
こういう考えを持つ行政、教職の従事者が多数存在する。
もちろん、そちら側にも色々な制約や難しさはあるのは重々承知で言いたい。
頭が硬いなぁ。
社会モデルという考え方が教育現場にも普及して、発達障害が「個性」と言える日本になってほしい。
いや、していきたいと思う。
ここまで読んでくださり、ありがとございます。
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