春、そして復活

iPhoneの画面をなぞる。ぼくたちはこのなかにいて、「ここにいるよ」と誰かに伝えることができる。はるか遠くにあったはずの感情たちは交じり合い、ぼくたちはそこに愛情に似た何かをみる。愛情とはなんだろう。このひとの言葉なら分かる気がするし、ぼくの声が届くような気がする。大人になっても、ぼくたちはそんな勘違いをする。けれど、ぼくは誰かを求めてしまう。結婚したいわけじゃない。家族がほしいわけじゃない。親友がほしいわけじゃない。ただ、自分の言葉が誰かに伝わることを確かめたいのだ。ただそれだけのための旅として、生きている気がする。

またiPhoneの画面をなぞる。きみは本当は生々しいものを包み隠しているだけの肉体で、ぼくの知らない悲しみや、ぼくの知らない喜び、恥ずかしさ、呆れ、興奮……そういったものを知覚し、ともすればそれらの正体を他者との関わりや書物やインターネットの情報などによって「意味のわかるもの」に変え、安心する動物なのだ。そうしてきみは形を持ちはじめる。きみもぼくも、形が無かったらどうするのだろう?そんなこと分かっているけど、ある程度の形がなければ他者と生きていくことができない。そういうことだ。

情報化されたきみは、それはそれできみなのだとして、ぼくたちは足元に転がるこの肉塊たちをどう扱うのだろう?残されたツイッターアカウントは、死者の代わりにすらなるのかもしれない。もっともっと「リアル」に、そうなるのかもしれない。けど、肉塊は転がる。それは硬くなり、死臭を放ち、腐り、炎ですべてを焼き尽くすことができる。

「終わり」とは何だろうか。終わることは怖いことなのだろうか。ぼくは、きみがいつか終わることを知っている。文字通りの「消滅」だ。残されたものは、残されたものでしかない。ぼくはきみの消滅を物語などにはしない。きみはいつか消滅する。だからそのまえに触れたい。その思いが萌え始め、拡大され、狼煙のように立ち昇っていくことは、たったひとり、ぼくだけにしか関係のないことなのだった。

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