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おじさんLINEとママを求める大人たち


1.おじさんLINE(DM)との遭遇

SNSのDMに頼んでもいない日記が送られてくる。

求めていない日記という表現もできる。

求めている情報だけを手にすることは偏った考え方を招く危険がある。

それはここでは考えずに進めていく。


DMに『日記』を送りつけられること数ヶ月


画像や今日の出来事、時事ニュース、感想、今日食べたもの。

昼夜問わず送られてくる。通知をオフにしていて、時々受信BOXを開いてみると、どこからどう返信したら良いのか分からないものがそこにある。

私のDM宛に日記を送ってくる人Aが居る。Aは知人だ。あまりにも頻繁で、返信に困るものばかりだ。数ヶ月前に止めてほしいと伝えて一旦収まった。しかし、ここ数ヶ月くらい、日記が復活していた。
何度も、私宛ではなく全体向けあるいは親しい友達向けに投稿したらどうかと提案した。
Aは、多数宛に文章や写真をシェアするのではなく、私だけにシェアしたい、私だけと『会話』したいと言う。

色んな角度から私の意思を説明をしたが、Aは『私達は会話をしているだけ』と主張する。
私は既読無視orスタンプだけで終えることが多い。Aにとってはそれも『会話』か。完全に無視した方が良かったと今では思う。

私はAに、"おじさんLINE"を知っているかと聞いた。

どんな特徴があるか説明した。
"おじさんLINE"とは、いくつか特徴があるが、その中の一つが、聞いていない今日の出来事を長文で送ること。


あなたはそれをしていると伝えた。

それでも、『私達は会話をしているだけ』とAは主張する。

会話をやめようと私は言った。
Aが何度も何度も打ち直している様子が表示されていた。

少し経って返信が来た。
「あなたを傷つけるような人とあなたが出会ったことを残念に思います。そして、私はそういう人間どぅえーす。お や す み」

これは私の勝手な和訳。
こういった印象を受けてしまった。
Aが日頃平穏な時に使う表現やタイピングとは明らかに違った。
タイプミスとは思えない強調があった。

こちらの話を聞いていない

少し話を戻す。"おじさんLINE"を知っているかと聞いた時、私の説明の後に、「知らないって言ったけど、コレを見つけた」とAは言い、おじさんLINEのスタンプの画像を送ってきた。
"おじさんLINE"の特徴の一つに、受け取る側が全く使わない表現と特定の絵文字や顔文字が使われていることが多いというものがある。非常に特徴的で、別のおじさんが送っているのに似通った特徴を持つのでネットで話題になった。おじさん構文とも呼ばれる。
それをスタンプにしたものがあり、Aはそれを見つけてきたのだ。「自分はプライベートチャットとグループチャットしか使わないから、こういうスタンプが使えることを知らなかった」とAは付け加えた。

どういうことなのか?
私はAに日記を送ってくることを止めてほしいという文脈の中で"おじさんLINE"の特徴の一つについて話していた。

あなたはこういった"おじさんLINE"のようなものを私宛に送っている。以前言ったように、日記を送ってくれるのはやめてほしい。これは『会話』ではなく、日記です。

こうした私の主張をきき、
『私達は会話をしていただけ』とAは言ったのだ。

私はそう思わないし、私は不快に感じる。
私が思う『会話』と、あなたが思う『会話』が違うのなら、やめましょう。

すると、先述の逆ギレと思える返信が来た。


2.表題について

全体像が理解できない


何が言いたいかというと、私が不快感を感じ、やめてほしいと伝えても、話を聞かない・話が効かない人は、私が話す全体像を理解するのではなく、局所的なことに関心を持ってしまうことが多いようだ。今回のAだけではない。私は残念ながら何度か似た状態を経験した。

『私が何を嫌がっているのか』含め、彼ら彼女らは話の全体像を理解したくないのか分からないが、理解出来ないようだ。


意思表示について

『きちんと意思表示をしなきゃダメだよ!』とよく言われるし、私もそう思う。

残念ながら、ハッキリ言っても通じない人間は思ったより多いのかもしれない。

老若男女、国籍、ルーツ、文化的背景関わらず、何を言っても、どんな説明をしても通じないことがあると知った。

時間的、精神的に束縛することへの無遠慮

"おじさんLINE"(おじさんに限らないし、おじさんが全員こうするわけではない)をしてくる人間に、Facebook、Instagram、Twitterへ投稿することを何度も勧めた。全員それを拒む。
「私は◯年以上Twitterやってるよ、話したい時に(少なくとも個人宛よりは)迷惑をかけずに話せるよ」と私は言う。彼ら彼女らは断固拒否する。また、既にSNSは沢山登録していると言う。

それを活用すれば良いのではないか?と私は思うが、彼ら彼女らが言うには、私だけと話したいらしい。
会話をするには、相手の時間や精神を遣うことになる。彼ら彼女らはそれに対して無遠慮だ。

会話を成立させる術を使えない

例えば、自分が沢山話して相手に話を聞いてもらったら、相手が話したい時には聞く耳を持つのが良いと思う。相手の時間や精神を遣ってもらったことと対等になるかは分からないが、少なくとも対等に近づくだろう。
また、自分にとって精神的負荷が重いと感じる話題があるとする。そういった話題を特定の人に聞いて欲しい時はワンクッション置くとか、いつなら聞いてもらえるか、工夫することで聞いてもらえる確率が高くなる。これは相手への配慮であり、自分が得する(技)術だ。
彼ら彼女らはそうした工夫をせず、いきなり長文を送ったり、重い話題を思いついたまま始める。それに応えないとどうして聞いてくれないのかと不機嫌になる。

彼ら彼女らが求めるものとは…
『ママ』。

ママ、つまり母親のような存在だろう。
(これは時代にそぐわない考え方で、実際は母親に限らないが、たまたま私が遭遇した彼ら彼女らが求める像に当てはまる単語だった。)
相手の状況など構わず、
聞いて聞いて!あのね、こんなことがあってね、それでね、こう思ったの!あなただけに聞いて欲しいの!
まるで子どもが母親と『会話』する時の様子を見ているようだ。

3.失敗と対処

わたしも失敗している

この文章を読んだ人は、まるで私が会話やコミュニケーションの達人のような口ぶりなので、そう思ってしまうかもしれない。

しかし、実際の私を知っている人は、そうではないことを知っているだろう。

私は対人関係や対話の場面で『間違えてしまった』と思うことが頻繁にある。それに加えて幼少期からおしゃべりが好きなので、必然的に間違える回数が多い。不快だと言われたら反省し、改める。残念ながら改められないこともある。
自分が完璧だとは思えないので『態度を改める機会』を作ってくれる人は優しい。その優しさに甘え続けないようにしたい。

コミュニケーションの多様さ

人によってコミュニケーションの仕方は違う。それで良いと思う。
コミュニケーションは多様で、例えば、ネット上で、言葉や画、リアクションを投げかけた時に、既読無視やスタンプだけ返すこともコミュニケーションのひとつだ。(私は時間や精神的余裕が無い時に、こうすることもある)
言葉を交わすことはないが、お互い、いいね!をタップするだけのコミュニケーションもある。
相手のことを何も知らないが、遭遇すれば挨拶するだけのコミュニケーションもある。
どんな状態をどう定義して、それをどんな言葉で呼ぶのか。学術的に定められていても、人によって感覚は異なる。
誰でも見当違いを起こす可能性はある。
『会話』の捉え方も、自分と相手で異なることがある。この文章に出てくるAと私は、『会話』の捉え方が違うのだろう。

健康的に生活していくコツ

対人関係で、どちらかが不快になるならば、コミュニケーションの仕方を変えたり控えたりすることは、お互いが健康的に生活する上で重要だ。
それがブロックという手段になるかもしれない。ブロックする、されたことは必ずしも悪いことではない。どちらも存在を消さずに、距離を置くことが出来る機能だ。健康的に生きていく上で、これを知っているととても役に立つはずだ。

どう伝えても通じなかった出来事が、時間や経験を積んで通じることもある。


当分の間、私は、私に対して一方的にママを求めているような人間と距離を置くことにした。

みなさん、健康的に生きていきましょう。


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