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旅人の私と横浜① 父方ー岡山から来て横浜へ。戦争を潜り抜けた家系

終戦記念日なので、戦争を忍ぶ気持ちをこめて、私が埼玉から旅人として立つ前に、どのような出自で私が生まれたのか、どんな環境で育ったのか少し書いておこうと思う。

私は横浜で生まれた。
母方は埼玉の武将と、東北の亡んだ某藤原関係家(家臣か傍流かわからない)につらなる家系とのことだが、横浜に住むことになった影響として大きい父方について語っていきたい。

○曽祖父(岡山の豆腐売りと岡山県某藩元藩士のばあさま)

貧乏暮らしの豆腐売りの青年と元下級藩士の家系の婆様がなぜか結婚したらしい。
なお、ばあさまはプライドが高くて「武家の家系」に誇りがあり、一切家事もせず、態度がやたらデカく、でんと座っていただけとのこと。
江戸時代後期には藩士の地位もお金を稼ぐのも苦労した人が多かった経済事情があるらしいが、性格難も加わって、おそらく当時としても行き遅れのはずである。
曽祖父はどこで出会ったのか知らないが、大変だったであろう。

○祖父:豆腐売りのお手伝いから靴職人に


たぶん若い頃のじいさん

祖父は、岡山の県北の土手に近い場所で、貧乏暮らしを泣きながら耐えて、お豆腐を遠くまで売りに行く行商を子供の頃からしていた。
綺麗なお嫁さんと恋に落ちるも、上記の無能な婆様に「そんな細い腰で子供が生めるか!?」と結婚を大反対され、地方社会特有の閉鎖的な価値観を捨てて先に起業していた大阪の親戚のもとへ駆け落ちしたらしい。
当時は見合い結婚が珍しい時代にもかかわらず、である。

じいさん、大阪から横浜へ

横浜市民局広報写真でまわってきたもの。(現在の南吉田2丁目あたり)。今でこそ派手なお金をかけた国際仮装行列も昔こんな感じのお祭りだったらしい

じいさんは靴職人をしていたが、日露戦争の影響で靴が大量に売れて、人手不足だったこともあって、めちゃくちゃ忙しかったらしい。
何かのタイミングで横浜に工場を構えることになり、横浜に靴の工房を構えた。上の写真は横浜市の広報写真だが、右にある靴店で写っているのがじいさんの工場。靴職人も何人か抱えていて、毎日トンカントンカンとブーツを作っていたらしい。

太平洋戦争とじいさんの家

戦争が始まる数年前に父が生まれ、長男ということで当時の長男教もあり異常なほど可愛がられたらしい(なお、この長男教と溺愛ぶりが後の毒親に変貌する)。

1940年代、太平洋戦争が勃発し、じいさんは兵隊に取られて中国大陸で一般兵として戦ったらしい。でも、他人を殺すのも嫌だし、撃たれるのも嫌だからあまり前に出ずにラッキーなことに生還。普通に隣の人が死ぬ世界線で生きのびただけでもめっけものである。


戦争後期に空襲が始まると、空襲警報が鳴ると避難先の野毛山に家族みんなで避難して夜を明かしたり、今までの町が焼き尽くされて悲惨な状況だったらしい。それでも、空襲そのもので家族が亡くなることはなかったが、戦時中に姉二人が工場に動員されて大変不衛生な環境で働かされていたとのこと。

父の集団疎開時代

父はすでに小学校に通っていたが、集団疎開が始まって岡山の田舎(津山?)へ疎開したらしい。疎開先では母親と引き離されて毎日夜になると誰かが布団でシクシク泣いていて、もちろん父も泣いていたらしい。
この頃から地方学力格差があるのか、学校では都会育ちの父の方が頭がよかったらしく、遊びの時間は都会の子イジリをされたが勉強では勝っていたとのこと。
出される食べ物はかぼちゃなどでお腹が空くので、米が腹一杯食べたいと思っていた。

終戦後の父の家族は…

終戦後、無事横浜に引き揚げた爺さんと家族は再会した。しかし、靴工房はおろか、横浜の町は焼け野原になっていた。
靴を作るために貴重な靴の木型などがあったが、明日食べるものもない中で戦後、土地を買いますという怪しい人が回ってきて、その人に土地を二束三文で売ったらしい。なお、横浜には戦後米軍による戦後統治のため白いカマボコのような兵舎が立ち並んだ。

戦後、横浜の町は米軍兵士が結構いたらしいが、素行の悪いのももちろんいたらしい。細かい記録を漁ると、腕時計をしていたら強盗されるとかそんなのもあったが、なぜか公式な本の記録からはそういう細かな軍人の行為は抹消されているので不思議である。

父には姉が二人いて無事に生き延びたが、戦後に理由がわからず亡くなっている。写真を見た私がいうのもなんだが、目鼻立ちがぱっちりしていてすらっとした、着物を着ていると目を引く美人の10代だった。だが、父親が理由も知らずに亡くなったという。
母親が生きているのに、なぜ美人姉妹だけが亡くなったのだろう。今となってはなくなった記憶はわからないが、異様に少ない横浜の米軍兵の犯罪記録文献が私の中で引っかかっている。

戦後の暮らしとバブル

ここからは父の話に入る。

戦後、靴工房が営めなくなってしまった父の家は靴工房を畳んだらしい。
父は長男教で甘やかされ、野球を好きなだけやっていて、地元の私立にも通わせてもらっていた。
大学も野球部の先輩後輩で横浜市大の推薦枠があったが、受験当日に「なんか不便で行きたくなかった」と当時の若者らしい理由で行かずおそらく翌年から枠がなくなったので、「後輩に迷惑をかけたと思う」と述べていた。(最低)
おまけに、通学が便利な大学にしたがその大学は偏差値が低いので、「あの時やっぱりちゃんと受験していればよかった」と後述している。

大学卒後は「靴屋を継ぎたくなかった」とのことで、いろんな仕事をしてお金を貯めて、戦後の経済成長期に横浜で起業した。
当時は父のような夢みがちな人間でも、起業すればかならず当たる分野があり、その辺りは今の起業を阻む環境と全く違うのだと思う。
その後、起業した会社が軌道に乗り、バブル経済もあいまって一気に金持ちになった。

長男教で育った横暴な振る舞いや、今でいうパワハラワンマン経営者の典型だったが、「丼勘定」「大盤振る舞い」「適当経営」でも当時は経営ができていたので恐ろしい。
当時の書類や帳簿を見ると、本気で適当すぎて「なんでこんな人間でも起業や経営ができたのだろう?」と疑問に思ったが、当時は対面の仕事が世の中の大半を占めており、数字をきちんと計算したり、書類作業なんか女の事務員に投げておけ! のような感覚だったのだろう。

ここからこの毒父が破天荒なバブル経済を経て、離婚再婚をして、家系が割と複雑な中で私が横浜で産声を上げることになる。


つづく

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