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第7話・母の問題再び

このころの母の写真が探せないので、アメリカ生活し始めたばかりの私たち夫婦の写真をトップに使った。このころは、不景気で夫の仕事がなかなか見つからず、めっちゃ貧乏生活で、いつもTシャツにジーンズという出で立ちだった。まあ、今いるテキサスでも、あんまり変わらない、Tシャツに短パンだけどね。笑 アメリカというのはそう言う所なのかもしれない。笑笑

私が横浜で母と暮らすようになってから、夫と結婚するまでの5年間に、母は、何回も大酒飲んでぶっ倒れるというのを繰り返しながら、それでも私は、母と一緒に暮らしていた。このころの私も、もしかすると共依存だったのかもしれない。とにかく、誰かが母を見張ってないと大変なことになると思っていたから。それが母の性格、性質だからしょうがないと諦めてもいた。

でも、こんなことを度々続けていれば、母は母で、仕事復帰が難しくなくなるわけで、案の定、とても気に入っていた職場を左遷になり、秦野温泉まで通勤しなければならなかった。母が左遷になった理由は、虐め。なんといじめた側だった。これは驚きだった。

ある日の夕食、母と酒を飲みながら、母の愚痴を聞いてると、母は、一人の新入社員の女の子が何回教えても仕事を覚えないと言う。そんな彼女に母は厳しかった様だ。話を聞いてる最中、そこまでしなくてもいいんじゃないと思い、何故入ってきたばかりの子をそこまで追い込むんだ?おかしくないか?と母を問いただした。そうしたら、とにかく、その子のやることなすことが全て気に入らないと感情をこめて言っていた。ただ単に嫌いというだけなんだよね。いい大人が変だよね?

こんなところが、やっぱり、病気なんだと私は思う。その後、また落ち込んで仕事に行かずに、大酒飲んでぶっ倒れる日々が続いた。私が25歳くらいの時だったか、母が、まだ嫁に行かないのか?私があなたの年には結婚していたぞ。と軽く攻撃し始めたので、私は夫の住む立川に引っ越しをした。やっと母の家を出る決心がついたのだった。まだ結婚はしてなかったが、とりあえず、私も家を出たいし、夫に聞いたら、OKだというので、荷造りをサクッっとし、立川へ引っ越した。

それから母がどうしていたかは、気になってはいたけど、いい加減、母の問題はお腹いっぱい状態だったので、少しくらい辛くたって自分しか頼りにならないのなら、我慢が出来るだろうと、母が自力で立ち直れることを願ったが、ある時、母の家に自分の荷物を取りに帰った時に、バス停に母がいたのだ。その顔が、普通じゃなかった。顔を見れば尋常ない状態だというのはすぐわかった。あんな顔の母を見たのは初めてだった。凄い形相ってこの事だと思った。

かなり辛い状況であっても働かなきゃならないので、我慢して毎日仕事に行っていたのだろうとその時思った。限界が顔に滲み出ていた。母は毎晩夕食をしっかり食べないで、晩酌をする。タバコも吸うので本当に不健康な暮らしをしていたと思う。

結局、私がいてもいなくっても、母の行いは変わらないという事が分かった。この時、私が専門医に連れて行ってあげるべきだったのかもしれない。でも、その頃の私には、まだ世の中に、こんなに沢山の人が精神の病気で悩んでる人がいるって言う事実を知らなかった。身近にうつ病で薬を飲んでる人もいなかった。なので、こう言う人なんだろう、しょうがない と、父の親戚達と同じように思っていただけだった。

ある時、母に夫を紹介したら、夫はとっても気に入られて、ああ、いいんだ外国人と結婚しても と意外な結果になって、夫と婚約し、スーツケース一つでお嫁入りした。笑 本当に意外だった。引き止められると思っていたけど、すんなり結婚できたのだった。

夫に母の事はすべて話してあるので、やっぱり気になるので海外に行くのはどうかなと思ってるというと、夫が、親なんか先に死んじゃうものだよ?どうでもいい事。それより自分がどうしたいかだと思う。って言われて、踏ん切りがついたのだった。その通りだよな!って、さすがアメリカ人。違う視点からの物の見方を教えてもらった気がした。笑







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