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第二十話・初めて見たアメリカと言う国

まあ、無事にシカゴに着いたのはいいけど、「はーこれが、アメリカね、なるほどね。」と、それこそ街録の三谷さんの口癖?と言う感じの毎日だった。笑 知らないことだらけで、しかも英語も低レベル。見て、聞いて、体験して身に付ける方法しかなかった。

思ったよりシカゴのサバーブは平和で、私にとって過ごしやすかった。シカゴと聞くと皆、危険!と思う様だが、それはダウンタウンの主に南側。私の夫の実家はオヘア空港のすぐ近くのサバーブで、飛行機が家の真上を飛ぶのが煩すぎるのを除けば平和なところだった。

その頃はまだ、白人ばかりが住んでいるエリアだったように思う。今振り返ると、近所にアジア人も黒人もいなかったわ。それが私が見た最初のアメリカ。白人しかいなかった。笑 でも、その頃からヒスパニックは、少しだけいたように思う。庭師なんかはヒスパニック(主にメキシコ人)だった。

私に車の運転を教えてくれたドライバー講師は夫の同級生で、その人も双子の兄弟がいて、その人の双子の片割れはランドスケープの会社をやっていて、メキシコ人を沢山雇っていた。だから、スペイン語も少し話すって言っていた。

夫の地元は、ごく普通の白人のミドルクラスが住むエリアで、世間一般でアメリカ人(白人)ってこんな感じと言う人たちが住んでいた。言葉もミッドウエストでアメリカでは標準語と言われる話し方なので、まあ、分かりやすい英語を話す人が多かったんじゃないかと思う。

困ったのは前にも話したけど、夫の仕事がすぐ決まらなかったこと。湾岸戦争が始まってすぐだったので、政府関係の仕事の雇用はストップした。となると、送った履歴書もキャビネットの中の保存されたまま、レビューもされないという事。あれまぁ。

しばらくは、夫が貯金したお金で暮らしていた。私は完ぺきおまけ状態。それに付いて行くしかなかった。だって働けないし。結婚によるビザ(永住権)はあるけど、社会人として働けるコミュニケーション能力がないのだから、働けない。マクドナルドですら無理。車の運転もしたことなかったし、免許もなかったし。こんなんでよくアメリカに行ったよなと自分でも思う。

夫は、ケーブルテレビの会社の仕事、のちにコミュニケーション系の会社ののテックの仕事と一応仕事をしていた。1年が過ぎ、2年目になった時点で、やっぱり上手く行かないのかしらね?と疑問が生まれたし、お金も底を尽きそうだったんで、お金をセーブする為に、夫は両親の家にお世話になり、私は日本に帰って少し働いてくるということになった。

ここで、離婚ってなっても良かったのかもしれないが、なぜかそうならなかった。そこが自分でも面白いと思う。あのまま、アメリカに帰らなくっても良かったんだよねと思う反面、何故か知らないけど、これでいいんだと思ったのだった。普通はここでやっぱり違うよねって思うんだと思うけどね。笑
私は勘がいい。

で、日本に出稼ぎに帰った時に、無理やり父の子供達に会わなきゃならなかったって訳よ。あの時の父はニコニコして、お母さん猫が、生まれた子猫をみせに来るみたいな感じだった。私は、ああよかったね。って思うしかなかった。

けどさ、心の中では、この子が20にになる時には、あんた、いくつになるのさ?!って呆れていた。笑 やっぱり、父は父で病的なんだよね。とても50過ぎの男と思えない幼さがあったように思う。もともとなのか、育ち方に問題があったのか、いまだ分からないけど。

母も病的、父も病的。でもそう理解していたから、私はそうならなかったんじゃないかな?と今では思ってる。ここで、こいつらのせいで、何もかもが上手く行かないんだ!みたいに両親を恨んでいたら、今の私の生活は無かったんじゃないかな?もし両親を恨んでいたら、私までもが病んでいたと思う。何処か客観視することで、壊滅的な被害は受けなくって済んだのだと思う。

それから半年かそれくらい、1年経つ前にアメリカに帰った。

帰ってしばらくしてから、あんまりに仕事がないのでシアトルにでも行こうかということになった。そこにはIT関係の仕事があり、夫は面接も通った。そう思っていた矢先に電話が入り、仕事の件でお知らせがありますとお伝えくださいと国務省から連絡があったのだった。

やっとだよ。笑 やっと動き出した。申し込みから面接まで、こんなに時間がかかったのは、おそらく私達だけなんじゃないかしらね?そして夫はアムトラックに乗って、ワシントンDCまで面接に行き、後に面接が通ってシアトルでなくワシントンDCに引っ越すことになった。

私は、日本から帰って来てすぐに、車の免許をとって、しばらく日本のスーパー内にある書店でバイトをしていたのだけど、シアトルに行くことになっていたが、ワシントンDCになったと店に伝えた。こんな私なので、夫が国務省の職員になると言ったら、パートのおばさん達には、なかなか信じてもらえなかった様だった。笑 まあね、チャラそうに見えてたんでしょうね。実際、ただ馬鹿なだけで、それほどチャラくはないのだよね、私。まあ、ディスられるのは慣れてるんだけどね。笑

天下の国家公務員?or しがない国家公務員?どっちでも勝手に思ってくれれば良い。私たちは、シカゴ郊外のアパートメントを出て、夫の兄から数百ドルで買った、84年ルノーアライアンスでDCに向かった。高速道路をこれで走ったら、ガタガタ揺れて、超怖いのよ。ww 後にも先にもここまでお金が無かったのは、初めてだった。笑 今となっては笑い話だわ。

続く








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