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ザ・街録に出るまでもない・番外編10(私と富士山)

私は富士山が大好き。

特に、冬の寒い時期の良く晴れた日に、横浜の丘の上から見える富士山は、私の大好きなイメージで、たぶん一生忘れないイメージ。脳の海馬内で永久保存版として仕分けされ、私の大脳内にしっかり保存されている。なので、いつでもそのイメージは取り出せるようになっている。

父が私にしてくれた、「良い事」 は、よくよく考えると、全く無かったわけではなく、この富士山についても、父がしてくれた良い事の一つだった。

小学校5年生で、他の学区に引っ越しをした私は、あと1年で卒業と言う事で、越境通学と言うのをした。これは父のアイデアであった。3歳下の弟も一緒に、毎朝早くに家を出て、大体3kmくらいの距離を歩いて通学していた。私達兄弟は毎日、往復6kmを歩いた。

横浜に住んだことのある人なら、誰もが知っていると思うが、横浜と言うと、港とか海のイメージだろうけど、実際は小さな丘だらけで、坂道がやたら多い。なので、埼玉に引っ越した時に、自転車人口の多さに驚いたのだった。横浜は、坂道が多すぎて自転車が役に立たない。

私の永久保存版の「イメージ富士山」は、通学路の始めの方にやって来る、こんもりとした丘の上から見える富士山なのである。当時私たち家族は、出来たばっかりの新しいアパートに住んでいた。

会社が倒産して、父が自己破産をしてから、もう、4年くらい経つのに、父は相変わらず仕事らしい仕事をしておらず、引きこもりの様な生活をしていた。母は相変わらず双極性と思われる症状が治まらず、精神の波があった。なので、父と母は、ご近所迷惑になるくらいの夫婦喧嘩を良くしていた。流血の夫婦喧嘩もこのころに起こった話。長女の私としては、全く、気が気でない、とても憂鬱でストレスフルな毎日だった。

そのアパートの前の道は、かなり傾斜のある坂道になっていて、横浜の坂、特有の、丸い模様の滑り止めが付いていた。その坂道を登って、両脇に笹が生い茂る細い道を更に上って、アパートの大家さんの畑がある丘の頂上を目指す。車1台分の幅しかないその道を上っていくと、丘の頂点があるのだ。そこには、大家さんの持っている畑に、キャベツなどの野菜が沢山植わってた。その丘に、富士山が見れる絶景ポイントはあった。

周りの風景と対比して断然大きく見えた富士山は、実際、横浜のどこからでも見れる富士山のサイズと同じだったのだろうけど、ここから見る富士山は格別に大きく立派に見えた。富士山の手前に見える、横浜のこんもりした小さな丘の風景が、余計富士山を大きく見せたのだと思う。

冬の朝の、雲一つない真っ青な空を背景に、朝日にを浴びて光り輝く、雪化粧した富士山は本当に美しかった。

天気がいい限り、これを毎日繰り返し見れたのだった。家で繰り返し起こった嫌な出来事を全て忘れてずーっと横目で富士山を見えなくなるまで見つめて学校を目指したのだった。

この通学路は、「横浜にまだこんなところがあるんだ!」と驚くような小さな道をずーっと歩いて、元々私が住んでいた近所へ出て、前と変わらずの通学路に合流するのだった。

この、通学路に当時の私の心は救われてたように思う。つかの間の幸せを感じる事が出来た。毎日富士山が見れるのもそうだったのだが、都会に残された自然を沢山味わう事が出来た。

左側にクヌギ林があり、夏休みに入ると、弟たちがクワガタを採りに行っていた。右側は崖になっていて、下の方に農村の風景が広がり、春になると桃が咲いていた。秋は秋で、道端に野菊が沢山咲いていたし、たまに赤とんぼの大群と遭遇した、この世のものとは思えないような幻想的な風景だったのを思い出す。大雪が降った後などは、両側の木々に大量に雪が覆いかぶさり、それが雪のアーチとなって、それはそれは幻想的だった。自分が雪を踏む音しか聞こえないという効果も手伝って、その幻想的な風景をより美しくしていた。その風景は、何処か西洋的な感じさえした。寒さなんかすっかり忘れて、見惚れていたのを今でもよく覚えている。本当に綺麗だった。

私たち家族には「田舎」っていうのが無かった。父方の祖母は、東京の三ノ輪だったし、母方の祖父母はすでに他界していた。なので、私は「田舎」と呼べる自然豊かな日本の風景を誇れる土地なんかには縁がなかった。けど、この通学路がちょっとだけそれを味わえるのに役に立ってくれたのだった。

そう思うと、父の考えのおかげで、得したこともあったなと思い返すのだった。思い返すと、意外にも沢山ある事に気が付いた。父が生前よく言っていたことの中に、「親っていうのは、子供の為を想ってものを言うんだから、聞いた方が自分の為になるんだぞ。」と。

なるほどそうかもしれない。







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