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祖父、パトカーに乗る・上

 母に連れられ、妻と一緒に備北にある祖父母の家に帰省した。そこでちょっと変な事件を聞いたから記しておく。というのも、題の通り祖父が警察の世話になった。

 私の祖父母は、祖父が86歳、祖母が83歳の高齢夫婦である。しかしそれで農業をまだ続けているシン・高齢者夫婦である。祖父は田植えから稲刈りまで、祖母は畑でキュウリからメロンまで育ててたまに宅急便で送ってくれる。それが美味いのなんの、同じ茄子や玉ねぎ、白菜でもスーパーに並ぶものとは比べものにならないくらい新鮮で美味である。美味しかったよありがとうと電話で連絡すると、大層喜んで今度は倍の量を送って来て食べきれない。祖父母には足を向けて寝られない。

 祖母はまだ元気で、少し耳が遠く、腰が曲がっているくらいだが、祖父は少し怪しい。
 まずあまり耳が聞こえない。それと記憶が持たない。これがなかなか困るようで、祖父が出かけるついでに祖母から用事を頼まれても、やらずに帰ってくる。この前も農協に行くついでにコープへ買い物を頼んだのに寄るのを忘れて帰って来たという。それが用事を聞き取れなかったからやっていないのか、聞き取れたけれど忘れてやらなかったのか、その両方なのかわからない。それで別の日祖母が買い物メモを渡して忘れないようにと念を押すと、「わかった」と言って出かけて今度はちゃんと買い物して帰って来た。祖母がよかったありがとうと言って受け取ると祖父は「ああしまったよ」とつぶやく。どうしたのと祖母がまた聞くと「農協へ行くのを忘れた」。

 祖父も祖父で聞こえていないのに聞き返すのが面倒らしく、思い切って聞こえたふりをすることがあるようだから厄介である。帰省した初日、夕飯の席で母が「近頃は暑いから田んぼに出るだけでも大変でしょう」と聞くと「ん?」と聞こえない仕草を見せる。母はもう一度、今度は大きな声で「暑いから、田んぼに出るのが、大変でしょう」と踏ん張る。祖父がまた「ん?」と返す。それでも母は諦めあず「暑いから、大変でしょう、田んぼが、」と怒鳴る。それで祖父はやっと聞こえたといったような表情で頷いて、「そんならクーラーをつけなさい、そこへリモコンがある」と返事をする。これには母も私を見て苦笑するのだがこちらを見て笑われても困る。

 しかし今考えてみると母が三度目に言った「暑いから大変でしょう田んぼが」は妙な一言である。母も繰り返し怒鳴るのが大変だから要約した積もりなのだろうが、こんな言い方では聞こえていても「何が?」と聞き返さなければならない。祖母も似たような調子で話すことがあるから、先に書いた聞こえない、忘れた、の可能性に加えて「聞こえたが伝え方が悪くて意味がわからない」の可能性まであって、事態は混迷を極めている。

 もちろん祖父が聞こえていて聞こえないフリをする小狡さを有していることを、半世紀以上夫婦をやっている祖母はちゃんと見抜いていて、平生伝わらないもどかしさも相まって祖父にがみがみ小言を言うことが増えた。ところが祖父は泰然としていて、大抵ニコニコと聞き流している。今聞き流していると書いたが、その小言すら聞こえていない可能性がある。あるいは聞こえていて聞こえていないフリをしている可能性もある。私は後者だと思っている。というのも、祖父は認知が難しくなる前から大変ユーモアのある人物で、よく気の利いた一言や冗談で私を笑わせてくれるのだが、認知症になってからもそのユーモアは健在で、祖父が時折放つそのユーモアや冗談が、聞こえていない人とは思えない内容だからである。聞こえている時と聞こえていない時があって、それを上手く使い分けている気がする。しかしだとしたら、祖母に小言を言われた時のニコニコは大変立派なものだと思う。

 あれこれ書いたが、この高齢に至ってなお自分たちの力だけで生活をしているのだから大したものである。ヘルパーや介護サービスなどは一切使っていない。

 さて、冒頭に変な事件と書いたのは、この祖父をめぐる事件である。居間で土産の洋菓子とお茶を囲んでいたときに、祖母が笑みを浮かべながら次のように語り始めた。実際は方言であるが少し整えてある。

 「こないだ大変なことがあったよ。お爺さんが警察の厄介になって家へお巡りが来たんじゃ。」

 一同ぎょっとする。どうしたのと母が世間に迷惑でもかけてないかと心配して続きを促す。祖母は続ける。

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