階段の夢(乾きと潤いについて) 4

 僕はジンに水を勧める。「水道水しかないけど」、ジンは首を振る。顔は真っ赤だし、目は据わっている。それでも彼は新しい缶のプルタブを引く。それこそビールはアメリカ合衆国が保有する核弾頭くらいあるからいくら飲んでも問題はないのだが、明日彼がひどい二日酔いと共に目を覚ますことは間違いないだろう。五千円賭けてもいい。
「馬鹿。俺たちの大学生活は二日酔いと共に始まり、二日酔いと共に終わってたろう。これくらい屁でもない」
「普通の夢を見ることはあるのか?」、僕は尋ねる。
「ああ、あるよ。それこそ今日、飛行機で居眠りをしていたら夢を見たよ。工場で働いている夢だ。段ボール箱がベルトコンベアーに載って何万個も流れてくるんだが、俺の仕事はその中身を検品する仕事なんだ。箱を開いて中身を確認し、不良品があったらはじく。問題がないものははそのまま流す。それを繰り返す。無事にそのテストをパスした箱は別のレーンに運ばれ、ガムテープで封がされて無事に商品として出荷される。でも箱の中身はな、フィヨルドの空気なんだよ。それを確かめるべく俺が箱を開けると空気が逃げ出す。何度やっても失敗する。俺はベテランのばばあに叱られる。『こんなの無理ですよ、だって空気なんだから、箱を開けたら外に出ちゃいますよ』、俺がそう言うと、『何言ってるの。ちゃんとマニュアル通りにやればいいだけじゃない』とばばあが言う。俺はそのばばあをぶん殴る。するとばばあは風船みたいに破裂して、その風圧で工場の設備全体がお釈迦になる。フィヨルドの空気は人気商品だから、俺は何十億という損害賠償を請求されるんだ」
「嫌な夢だね」
「ああ、クソみたいな夢だったよ。とにかく、普通の夢は見る。というか、階段の夢は夢じゃないという気がしてならないんだ」
「階段の夢は夢じゃない?」、通販番組のアシスタントが限定価格を聞いて驚いた時のように、僕はそう復唱する。
「ああ。この夢については自分なりにかなり調べたんだが、調べれば調べるほど、これは夢ではないんじゃないかという説が俺の中で濃厚になってきている」
 ジンは煙草を口に咥えて青いBICライターで火をつける。
「夢じゃなかったから、一体なんなんだ?」
 夢じゃなかったら一体なんなんだ。僕にはさっぱり理解できない。ジンは口から煙を吐く。
「他人の記憶だ」、とジンは言う。僕の頭にその言葉の意味はうまく浸透しない。
「君は他人の記憶を見ているの?」
「おそらくそうだ、ということだ」
「どうしてその説が有力なんだい?」
 ジンの表情が曇る。いたずらの証拠を突きつけられた子供みたいだ。ジンは誤魔化すように煙草を吸う。
「それに関して、色々な理由があって説明するのは難しい。そうだな。これは誰か他人の記憶なんだよ。きっとそうなんだ。俺の中に階段なんて存在しない……俺以外の誰かが見ている世界が、俺の中に流れ込んできてるんだと思う」
「そうなのか」、と僕は呟く。ジンが言うならきっとそうなのだろう。
 ジンは留学が終わってから現在に至るまでの経緯について語り始める。
「まず、パソコンから女たちの画像を削除したんだ。そのまま保存しておくと、なんというか、まるでばらばら死体を隠している冷蔵庫みたいなものに感じられたからね。それっきり、女たちを繋ぎ合わせることはやめた。禁断症状みたいにどうしてもやりたくなる時があったけど、その時は擦り切れるくらいオナニーをした。というのも一度、苦し紛れに女を抱いたことがあったんだが、階段の夢を見たんだ。その夢はな、綾とやったときに見た夢とほとんど同じ夢だったんだ。つまりな、俺の行動内容に応じた夢が準備されてるんだよ。とても正確に。不気味だろ? だから女を抱くのもやめた。クリーンになったわけだな。
 留学が終わって秋田に戻り、卒論を書きながら就職活動をした。正直、金を稼げればどんな仕事でもよかった。五年くらい働いて金を貯め、大学院に入ろうと思ってたからな。受けたところはほとんど内定を出してくれた。そのうちで一番金払いの良かった今の会社に決めた。俺が仕事を続けている唯一の理由は、金だ。
 こよみは国連の関係機関に入ろうとしてたけど、だめだった。俺としてもとても残念だった。彼女は文字通り死ぬ気で勉強して準備してたし、その姿を横で見てたからね。結局こよみは外資系のコンサル会社から内定をもらった。国内でキャリアを積んでから海外の本社に異動しばりばり働く、というビジョンが見えたらしい。国連の業務とはほとんど重なる部分がない会社だけど、海外で働くという野望は捨てられなかったみたいだ。あ類は、彼女がそのコンサル会社に入ったのは報復的な意味があったのかもしれない。恋人に振られた悔しさを晴らすため、もっと良い相手を求めるみたいにさ。
 社会人生活が始まってからは、二人で過ごす時間はほとんど作れていない。いや、正確には、無理矢理作った時間しか過ごしていない、というべきかな。二人とも東京だったけど仕事は忙しいし、路線も全然違うから気楽には会えない。ほとんど付き合ってないようなもんだ。だが俺もこよみも、いまさら十代のガキみたいにきらきらした恋愛をしたい訳ではないから別れて新しい恋人を探すつもりもない。でも形式的には付き合っている。その形式を成立させるために洒落たレストランで高い飯を食ったり鎌倉へドライブになんて行ったりする。楽しいし、幸せだ。でもそれは自然じゃない。人工的なんだ」
 ジンは眉間に皺を寄せ、吸い殻の溜まった灰皿に目を落とす。とても悲しそうな表情だ。
「つまりさ、学生の頃は俺とこよみはもっと自然なつながり方をしてたんだ。つまり、それは……例えば、地面に横になって星空を眺めたり、とかさ。でも東京っていうクソみたいな街には、星空を眺めるために横になる地面もなければ、地面に横になって眺めるための星空もない。地面に横になって星空を眺めるための静けさもない。どうしてこうなったんだろうな。階段の夢のせいか? 労働を中心とした生活に慣れたからか? 東京という騒がしい都市のせいなのか?」
 いいや、その全てだ。彼自身の問いは、彼自身によって答えられる。
「その全てなんだろうな。資本主義社会みたいに、あまりに多くのものがあまりに複雑に絡みあって連動している」
 ジンはしばらく沈黙する。家族が受けている重大な手術が終わるのを黙って待つことしかできない人のように見える。僕も口を閉ざしたままにし、ジンが話し始めるのを待つ。今日はジンが語り、僕が耳を傾ける日なのだ。彼は彼の役目を、僕は僕の役目を遂行しなければならない。
「本当のこよみがどこかに消えたような気がする。ある時から、そう思うようになったんだ。彼女はどこかに行ってしまった。俺は彼女に会うためにずっともがいている。本当のこよみがいる場所にたどり着くために、色々な街を訪れ、色々な路地を歩いた。でもまだ会えていない。
 そもそも俺は、彼女のことなんて何も知っていなかった。だから俺は彼女のことを隅々まで知ろうと思った。彼女の存在に迫る必要があった。そして彼女を頻りに抱いた」
 ジンは彼女のことを隅々まで知ろうと思った。彼女の存在に迫る必要があった。そして彼女を頻りに抱いた。裸になって交わると、やがて二人は粘土のように丸まり一つのかたまりとなる。その表面には膜が張り始め、徐々に硬さを増していき、ちょうど卵のようになる。その殻が割れて中からどろどろとした熱い液体がこぼれる。その液体はクリーム色を基調とした複雑な色合いを示している。比重が大きく、手で触れるとなめらかさの中に極めて細かな無数の粒を感じる。その液体に手を浸し、嗅ぎ、口に含み、身体全体で浴びると、肉体と心のつながりについて知ることができる。
 ジンは、こよみを激しく突いた。前回とは違う姿勢で、違う角度から、違う力の入れ具合で。ジンの動きはこよみを揺さぶる。彼女の身体中に直線でひかれたような律儀な亀裂が走る。こよみの身体がレゴブロックのように崩れていく。こよみの身体が少しずつ分解されていく。こよみの身体は小さくなり、こよみの身体であったものがベッドのシーツのしわの間に溜まり、かちゃかちゃ、と音を鳴らす。それはジンの動きに連動している。がちゃがちゃがちゃ、がちゃがちゃがちゃ、ジンの腰の機械仕掛けが潤滑油不足になって悲鳴を上げているかのような音がする。こよみが小さくなればなるほど、音は大きくなる。がちゃがちゃがちゃ、がちゃがちゃがちゃ、がちゃがちゃがちゃ。
 こよみがすべて解れてしまった時を境に、世界は時を数えるのを忘れる。古い机の表面に一本ずつ同じ傷を、同じ間隔で、一定のリズムで刻んでいた老人の厚く固い手は、小さく重い銀色のナイフを離したのだ。
 そしてジンは色とりどりのブロックを一つ一つ確かめていく。大きいものもあれば小さいものもある。質感、重さ、印象、細かな違いの一つすら見逃さぬよう、目を見開いてブロックを観察する。
 鏡の中の男がジンの後ろ姿を眺めている。瞳と口の空洞をぽっかりと空け、心の中には何も持たず、多様なかたちをしたこよみに目を凝らすジンの背中を、彼は眺めている。
 こよみをばらばらにしてみると、色々なことがわかった。こよみという存在は無数のブロックによって構成されていること。そのブロック一つずつに役割があり、歴史があること。ブロックそれ自体は大して素敵なものではないということ。ブロック単体ではなくあくまでその組み立てられ方こそがこよみをこよみたらしめていること。生まれた瞬間から現在に至るまで存在してきたこよみというブロック作品の組み立ては、模倣も再現も不可能なのだということ。
 ジンは解体した時とは比にならないほどの長い時間をかけてこよみを組み立て直す。しかしどれだけ試しても、元通りのこよみの形にはならなかった。噛み合わなかったり、どうしてなのか余ってしまう部品があった。無理矢理にはめ込もうと力を入れたら、せっかく完成間近だったものをまたばらばらにしてしまうこともあった。ジンは血液を沸騰させるような苛立ちを適切に処理し、これは起きうることなのだ、と数々の失敗を許容し、全神経を発熱させて細かなブロックの点検と組み立てに取り組んだ。
 解体する前のこよみがどのように組み立てられていたのか、ジンは知らない。それはもはや答えが永遠に失われた方程式のようなものだ。組み立てるごとに違うかたちのこよみが出来上がる。見た目は同じだが、組み立てられ方の違うこよみが出来てしまう。
 二人で会える日は、必ず長いセックスをした。こよみを知るためではなく、何かの偶然で本当のこよみが出来上がってしまう可能性に期待したのだった。本当のこよみ? とジンは自分自身を疑う。俺は本当のこよみなんて知らなかっただろう。初めて合った時から仲良くなり、付き合い始めてからも、何も知らなかった。俺はそもそも、本当のこよみを知らない。設計図も完成図もない家を建てているようなものだ。俺が意味する本当のこよみとは、いつ、どこで、どのように出会ったのだろう? 考えても考えても、答えに至る糸口は見えてこなかった。こよみがばらばらになり、歪に組み立てられる夜が何度も繰り返された。そのたびに本当のこよみはジンから離れていった。
 社会人として働き始めてから二年が経った。仕事はかなり多忙で精神的な苦痛が伴うことも多くあったが、毎月給料日に口座を見るとその疲労が麻痺した。こよみとの関係は良好だったが、十回に一回くらい、彼女の輪郭が靄のように揺らいで見えることがあった。こよみと都合が合わない時は、渋谷や新宿で年下の女を口説いて激しいセックスをした。その度に階段の夢を見た。
 自分がいまどこにいるのかわからない、と感じる瞬間が増えていった。
 やがてジンは太った女たちを裸にし、その顔にマクドナルドの紙袋を被せるようになった。黒いビニール袋やスキーマスクなど色々試したが、マクドナルドの紙袋が最もしっくりくるのだった。おまけに呼吸するための加工と、最後の処理が簡単だった。
 マクドナルドの紙袋を被せた女は四人いた。みな彼の社会的立場と経済力、容姿に惹かれた女だった。彼女たちとはマッチングアプリや異性を求める若者たちが集まる飲み屋に通うことで知り合った。ジンにとって、彼女たちをベッドまで誘導することはとても容易だった。ただある種の手続きを手順通りにこなせばよいだけだった。まるでスマートフォンアプリで新規会員登録をするみたいに。
 ジンはその女たちにハンバーガーの名前を与えた。彼女たちの顔に最初に被らされた袋の中に入っていた品名がその由来となった。一人目・ビッグマック、二人目・エグチ、三人目・えびフィレオ、四人目・チーズバーガー。もちろん彼の頭の中でのみ用いられる名称だ。きちんと当人たちには人間として与えられた名前で呼びかけた。ジンは他の女と混同して厄介なことにならないよう、ハンバーガーの名前と紐づける形で彼女たちの名前を覚えていた。ジンとしても、同じ顔をした彼女たちを識別する術が必要だったのだ。 紙袋を被ることを求めると、女たちは決まって恥ずかしそうに笑い、断った。冗談だと思ったからだ。だがジンにじっと瞳を見つめられながら身体を撫でられると、みな催眠術にかけられたかのようにとても従順になり、ポテトの油のハンバーガーに匂いが染みついた紙袋を頭に被った。
 ジンは四人の女に守るべきルールを三つ伝えた。
・袋をかぶっている間は決して喋ってはならない(快楽による喘ぎ声を除く)
・袋を勝手に外してはならない。体調不良など、緊急時は「モスバーガー」と大きな声で三度言うこと。
・自分が自分であることを忘れ、呼吸に集中すること
 服を着ている時の女たちは、西洋人から見たアジア人のように、みんな同じように見える。だが服を脱ぐとその違いがわかる。乳房や尻の大きさや陰毛の生え方などがそれぞれまるっきり違うのだ。ジンは特に、彼らの太り方の違いを興味深く思った。脂肪が集まる部位が四人それぞれ異なるのが不思議だった。ビッグマックは腹が一番大きく、乳房、尻、太ももにはあまり肉がついていない。エグチは身体全体に満遍なく、エビフィレオは胸と腹に、チーズバーガーは下半身に多く脂肪がついていた。服という袋に詰められるとシルエットが一緒くたになるのが残念だった。
 紙袋をかぶせると、その隙間から女が溢れてくる、とジンは思った。彼女たちから顔を奪う。すると肉体だけが残る。歯磨き粉のようにどろりとした女が紙袋の中から音もなくゆっくりと流れ、ベッドの上に堆積し、固有のかたちをつくる。
 セックスはしなかった。その代わり、視界と声を奪われた彼女たちの身体でさまざまなことをした。腹の肉が作り出す段の間にオリーブオイルをたっぷりと垂らし、スライスしたトマトとモッツアレラテーズをディップして食べた。肛門にウィダーインゼリーを注入し、失禁させ、出てきたものを女の身体に塗りたくった。ディルドーを手渡し、ひたすらにマスターベーションするよう命じた。エトセトラ。
 思いつく限りのアイデアを実行した。でもすぐに退屈を覚えるようになった。本当は腕と脚を入れ替えたり、尻の肉をちぎって腹や乳房に付け足したり、性器を裂いて肉体の表と裏を逆にしたりしたかった。それらは叶わなかった。だからこそ実現可能なものを手当たり次第やってみたわけだが、むしろその不自由さが際立つばかりだった。フォトショップのように、生身の人間も自分の思い通りにかたちを変えることができたら良いのに、とジンは思った。
 ジンが満足し次第、女たちはすぐに帰された。最初の方は彼女たちの信頼を獲得するための甘ったるいピロートークを怠らなかったが、値の張る食事や洋服を定期的に与えてやればとりあえず文句を言わずに裸になって紙袋を被り出すことがわかり、雑に扱うようになった。ジンが終わりと伝えたら、その日は終わり。何も言わずに黙って服を身につけ、マクドナルドの紙袋をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ入れて部屋を出る。運が良いと余ったハンバーガーを持って帰ることもできる。そして家でゆっくりとシャワーを浴び、自分がされたついてぼんやりと考える。そして数日か数週間後にジンから呼び出されると、キャンディに目が眩んだ子供のように彼のマンションへ向かう。

 ジンは夢の中で階段を下降する。それも後ろ向きに。
 交互に上げた足を段に載せていく。前進しようとする。だがジンは屋上には近づけない。彼は後ろ向きに一段ずつ低い場所に進んでいる。屋上と同様、地面の間には無限の距離があり、どれだけ下っても地上には戻らない。
 筋肉も腱も神経も正常に機能して足を上げている。だが結果はすべて同じだ。下っている。駆け上がるために身体を動かす。空間の裂け目から伸びる大きな手によって引っ張られているように、彼はその速度のまま階段を下る。それに抵抗しようと彼は叫びを上げてより速く身体を振るが、それは後退を加速させるだけだ。
 ジンは喉が焼けるほど、張り裂けるほど叫ぶ。その叫びを聞いて助けに来る者はいない。そもそも叫びによって振動し音になる空気もすらない。ここには魂の屍によって建築された無数のビルと、腐乱した善意から滲む粘液状の闇しかないのだ。
 恐れろ、まだ足りない、もっともっと恐れろ。鏡の中の男の声がジンの頭の中で反響する。まったく足りない。お前が俺を恐れる心も、女の血肉も、まだまだ足りない。もっとだ、もっと、もっとだ
 ジンは叫ぶ。彼は足を滑らせて前のめりに倒れ、顔面を強く打ち付ける。 

つづく

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