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子どもの疑問に大人がどこまで付き合うか。母親の偉大さを改めて知った話。

 最近の息子たち(兄:3歳半、弟:4か月)の様子。

 上の子は、毎日家の中を走り回り、奇声をあげています。

「お隣さんが寝れなくなるから、夜は大きな声出さないようにしてくれ」というも、まぁあまり変わらず。お隣さま、本当にごめんなさい。

 で、そんな兄ですが、最近は僕に「飛行機して!」とせがんできます。飛行機とは、僕が息子の体を水平になるように両手で持ち上げ、飛行機さながらに移動する、というやつで、なぜかものっすごい気に入っています。これ、めっちゃ疲れます。めっちゃ疲れるので、気分によってやってやったりやらなかったりです。


弟が尿路感染で検査にいくことに

 さて、4か月の弟くん、先日高熱を出しまして病院に行きました(妻と)。すると、「ただの風邪ではない」と言われたそうで。聞くと、尿路感染というもので、その原因が「たまたまばい菌が入った」のか「そもそも尿が逆流しやすい構造なのか」によって、場合によっては手術が必要だ、とのことでした。

 ということで、後日検査に行くことになりました。

 ここで、兄がこの一件に興味を示します。

 「○○ちゃん(弟)、どうなってるの?」とママ(妻)に尋ねまくり、ママが答えます。

妻は、学研の「人体」の図鑑を開き、説明しています。

妻「○○ちゃんは赤ちゃんやからココ(図鑑を指差しながら)でおしっこが逆流しちゃってるかもしれないんだって」

兄「ふーん。これなに(図鑑を指差しながら)?」

妻「これは腎臓。」

 ・・・

こんな感じのやり取りです。兄は人の体についての見識を深めていました。


子どもの疑問に大人がどこまで付き合うか

 こうした話を、職場の育児トークですると、「なんでそんなに探求心があるの?」という反応が返ってきます。

 ここで逆に、「じゃあおたくの子は”なんで?”とか”何?”と質問しないんですか?」と尋ねると、例外なく「うちの子も質問する」と言います。

 これは僕の持論ですが、「子どもは常に何かを知ろう、わかろう、とする存在である」というのをかなり初期から持っています。実際、発達心理学的にもそうらしいです。

 では、なぜ探求心のある子とそうでない子がいるのか。

 それは、「周りの関わり」だと思うのです。つまり、環境です。人的環境です。

 「なんで?」と質問したときに、周りの人が一緒に考えてくれたり、「なんでだと思う?」と質問返しされたり、「これで調べてみたら?」と道具をくれたり、と、何かしらの反応を返すことが、子どもが探求心を失わずに育っていくために必要なのではないか、と思うのです。単純にすぐ答えを教えるのではなく、子どもが自分で学ぶきっかけを与えてくれる存在がそばにいるかどうかです。

 「学習性無力感」という概念が心理学にあります。言葉の意味をとると、「学習された無力感」という意味ですね。

 大ざっぱにいうと、「自分が何か行動を起こした結果、何も問題が解決されなかったり、前進した実感が感じられなかったりすることが続くと、その人はその行動を起こさなくなる」というものです。

 たとえば、毎日数学の勉強を2時間ずつしていたのに、点数が全く向上しなかった場合、その子が数学の勉強を続けるモチベーションが激減します。「やっても無駄だわ」となり、努力しにくい状況になります。これは直感的にも明らかですよね。

 つまり、「無力感」は、自分の行動と外界の反応の繰り返しによって積み重ねられた経験から学習されるということです。

 さて、話を戻します。

 「なんで?」と質問するとき、子どもは疑問を解決したがっているわけです。だから、自分よりも物を知っているであろう大人に色々と質問します。このとき、「知らん」と言われたり、無視されたりすることが続くとどうなるでしょうか。きっと、「質問しても無駄だ」となりますよね。それがさらに「疑問をもっても、自分にはその疑問を解決する力はない」という無力感にまで繋がっていくかもしれません。それは、「学ぶ意欲の低下」に他なりません。

 子どもが何かしらの疑問をもって質問をしてきたとき、大人がどこまで子どもに付き合うかというのは、極めて重要なのではないかと感じる今日この頃です。

 そう考えると、うちの妻は、相当に子どもに付き合っています。

 やはり母親の力は偉大だな、ということなのでしょうか。

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