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イブキちゃんの聖書入門#86 「聖書的終末論⑥第二神殿崩壊の預言(中編)」

"イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マタイの福音書 24章1~2節

※前回(#85「聖書的終末論⑤第二神殿崩壊の預言(前編)」)の続きです。

☆聖書の神がこの世界に対して計画されている「神のタイムテーブル」の中心は、常にユダヤ民族(イスラエル民族)です。

神は今から約4,000年前にアブラハムという一人の人物を選び出し、彼とその子孫、つまりイスラエル民族と5つの契約を結ばれました。

その契約に従って神はイスラエル民族を取り扱い、またイスラエルを取り巻く全世界の諸民族を取り扱われています。

「歴史」は英語で「His Story」(神の物語)と書くように、聖書の神はこの人類の歴史に介入されます。

神はイスラエル民族と交わした約束、預言の成就に向けてこの人類の歴史を動かされ(イエス・キリストの降誕もその一つです)、今のこの時代はイスラエル民族に約束された最大の希望である「メシア的王国(千年王国)」の実現に向けてこの世界を動かされています。

その「メシア的王国」では、イスラエルのメシアであるイエス・キリストがイスラエルの地から全世界を統治するのですが、その約束、預言の成就の為にはイエス・キリストがこの地上に再臨し、イスラエル民族が民族的にイエス・キリストを「イスラエルのメシア」として受け入れなければなりません。

イエス・キリストを拒否したイスラエル民族の民族的な回心をもってして、「メシア的王国(千年王国)」は始まるのです。

"わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」"
マタイの福音書 23章39節

"わたし(神)は、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。"
ゼカリヤ書 12章10節

よって神はイスラエルがキリストを求めるように、それまでキリスト教徒の神だと信じていた「ナザレのイエス」こそが、彼らが待望していた「イスラエルのメシア」であったと目が開かれるように、「悔い改めへと促す裁き」をイスラエルに、またこの全世界に下されます。

それこそが「7年間の患難時代」であり、その中に映画や創作物でも有名な「ハルマゲドンの戦い」も含まれます。

何はともあれ、イスラエル民族を中心に据えなければ、聖書が示す「この世(時代)の終わりに何が起こるのか」、いわば「聖書的終末論」は正しく見えて来ない、聖書はそのような構造となっているのです。

☆その「聖書的終末論」を考える際の出発点となる出来事が、今から約2,000年前に起こった当時のユダヤ人が犯したメシア拒否の罪と、その罪に対する神からの裁きとして起こった紀元70年の「エルサレム陥落」です。

ローマ帝国の攻撃によって経済、生活の中心であったエルサレムを落とされ、同時に宗教活動の中心であった「第二神殿」を喪失したユダヤ民族は、結果として世界各地(主に西洋世界)に離散してしまうこととなりました。

その「世界離散」(ディアスポラ)の始まりから実に約1,900年後の1948年にイスラエル共和国は建国されましたが、聖書的にはその紀元70年の「エルサレム陥落」(メシア拒否の罪の清算)をもってして「いつでも世界は終末時代に突入出来るようになった」と言えます。

☆十字架刑の時が迫り、地上での活動時間が残りわずかとなったイエス・キリストは、神の預言者として、弟子たちに対してそのような「終末時代」に何が起こるのかを預言し、偽りの情報に惑わされないように、心の準備をしておくように警告しています。

そのイエスの終末時代に関する預言を書き残したものが、『マタイの福音書』に関して言えば24~25章に収録されている「オリーブ山での説教」と呼ばれるもので、冒頭でご紹介した聖書箇所は、その終末時代に向けての「ターニングポイント」とも言える「エルサレム陥落」(第二神殿崩壊)について言及したものです。

"イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マタイの福音書 24章1~2節

☆当時のユダヤ人指導者たちの不信仰により、ユダヤ人の民族的なメシア拒否の現実と直面したイエスは、悲しみと怒りで満ちながら建造中であっても荘厳な第二神殿を後にします。

そして目の前に置かれた十字架の道へと歩を進めようとします。

ところが、ペテロやヨハネ、イエスの弟子たちは、そのようなイエスの内面にある激情を全く知らず、目の前にそびえる、きらびやかな奉納物で飾られ巨大な石で積み上げられた造りかけの第二神殿に驚き、浮足立っています。

弟子たちの大半は、ガリラヤ地方というエルサレムとは大違いの田舎の漁村から出て来た者たちで、完全にお上りさんとなっていました。

そして彼らはその感動を師匠と共有する為か、イエスに近付いて「先生、見て下さいよ」と神殿を指差すのです。

イエスはそのような彼ら弟子たちに対して、「あなたたちはその神殿の外観に感動しているようだけど、それらが今見ているそのままの姿で残ることはないよ」と告げます。

つまり「第二神殿は完成したとしても崩壊するよ」ということをイエスはここで預言しているのです。

"イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マルコの福音書 13章1~2節

☆それが建造物であれ、事業のプランであれ、いかに立派なものであっても、いつまでも朽ちずに立ちゆくものはありません。

唯一、永遠であり創造主であるこの聖書の神のその計画によって生み出されたものこそが不滅であり、永遠の時に耐えうるものです。

それは究極的には、「メシア的王国(千年王国)」の先にある「新天新地」の希望です。

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節

目に映る繁栄に囚われず、永遠の神の言葉に耳を傾ける人は幸いです。

※次回「聖書的終末論⑦第二神殿崩壊の預言(後編)」へ続きます。

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