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イブキちゃんの聖書入門#85 「聖書的終末論⑤第二神殿崩壊の預言(前編)」

"イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マタイの福音書 24章1~2節

⭐︎前回では神はイスラエル民族と5つの契約を結び、その契約にある約束の故に神はイスラエルを守られる、という旨の説明を致しました。

また「契約による守り」があるのと同時に、神はイスラエルが「神を世の中に証明するのに相応しい民族」となるように訓練される、つまりイスラエルが民族的に不信仰なことを犯せば、その不信仰相応の「懲らしめ」を与えられる、ということについても言及致しました。

その「不信仰相応の懲らしめ」の中で、イスラエル民族とって最も過酷であり代表的なものが、紀元70年に起こったローマ帝国軍の侵攻による「エルサレム陥落(第二神殿の崩壊)」です。

紀元1世紀当時を生きていたユダヤ人歴史家のフラウィウス・ヨセフスによれば、この時のローマ軍の攻撃によって100万人以上のユダヤ人が虐殺され、10万人近くが奴隷としてローマ帝国内に引かれていったとされています。

(ユダヤ教の宗教的拠り所である第二神殿も、その時に破壊されました。冒頭でご紹介した聖書箇所は、その「第二神殿の崩壊」をイエスが預言したものであり、よってイエスは紀元70年の「エルサレム陥落」を預言したことになります)。

1948年にイスラエル共和国が建国されましたが、それでも尚、ユダヤ人はアメリカ、ヨーロッパ世界を中心に世界中に散らばっている状態です。

今も尚、継続状態だと言える「ユダヤ人の世界離散」(ディアスポラ)は、この紀元70年の「エルサレム陥落」によって引き起こされたものなのです。

⭐︎イスラエル民族が民族的に犯した不信仰によって、その懲らしめとして、結果として「エルサレム崩壊からの世界離散」という悲劇が起こりました。

では彼らが犯したその「不信仰」とは一体何だったのでしょうか。

それが、イエス・キリストをイスラエルのメシアとして受け入れなかったこと、ナザレのイエスが行う奇跡や権威ある言葉を間近で見聞きしながらイエスを拒否したこと、イエス時代のユダヤ人が民族的に犯した「メシア拒否」という不信仰です。

イエス時代のユダヤ人たち(主に宗教的指導者たち)は、旧約聖書(ユダヤ教にとってはヘブライ語聖書)の預言を知りながら、少なくとも「自分たちには神の言葉に関する知識がある」という自負がありながら、その預言の成就であるイエスを「神を冒涜する者だ、ユダヤ教の敵だ」と罵り、挙句には「イエスを十字架につけろ」とまで叫んだのです。

イエスご自身も何度も当時のユダヤ人たちに対して証言していることですが、イエスは聖書の神、創造主である三位一体の第一位格の神である「父なる神」から地上に遣わされた第二位格の神、「子なる神」です

そのイエスをメシアではないと決めつけること、拒否することは、「神の言葉を信用しない」ということであり、その不信仰によってイエスと同じ時代に生きたユダヤ人たちと、その1世代下の子供たちが「エルサレム陥落」という罪の刈り取りを被ることとなったのです。

"わたし(イエス・キリスト)と父とは一つです。」
ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。
イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」"
ヨハネの福音書 10章30~33節

"ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」"
マタイの福音書 27章22~25節

※上記の「マタイの福音書27章」の「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」という箇所は、よく反ユダヤ主義を正当化させる為の根拠としてキリスト教界でも引用されることがあります。

つまり、「ユダヤ人はキリスト殺しの民族だ、彼ら自身が『キリストを殺した血は子孫たちの上に降りかかっても良い』と言っている、だからユダヤ人はキリスト殺しの報いを受けるべきなのだ」という論理です。

またそこまでは言わなくても、「だからユダヤ民族は神から見捨てられた民族なのだ」という論調、考え方が伝統的なキリスト教界には確かにあります。

しかし聖書全体の主張を見れば、ユダヤ民族は神から見捨てられた民族ではなく、依然として神のご計画の中心に存在し続けていますし、「神の民イスラエル」を破壊しようとする反ユダヤ主義は、どのような理由があっても許されるものではありません。

「マタイの福音書」という書は基本的にユダヤ人に向けて書かれた書であり、「ナザレのイエス」を実際に見聞きした当時のユダヤ人が犯した「メシア拒否」の罪とその結果について追いかけています。
(故に「マタイの福音書」ではイエスによる「第二神殿の崩壊(エルサレム陥落)」の預言も取り扱っています)。

よって、あくまで「メシア拒否」の罪の刈り取りを受けることになったのは、初臨のイエスと同時代に生きた約2,000年前のユダヤ人たちと、彼らが宣言したその1世代下の子供たちまでです。
それ以降のユダヤ人たちには適用されない「呪い」なのです。

⭐︎イスラエルのメシアとして地上に来られたのに、そのイスラエル(当時のユダヤ人)から拒否されたイエスは、弟子たちに対して「メシア拒否」という罪の結果として将来に起こる「第二神殿の崩壊」の預言を語ります。

"イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物(第二神殿)を指し示した。
すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」"
マタイの福音書 24章1~2節

イエスはこの預言を語ってから3日後には十字架につきます。

つまり、この預言の箇所はイエスの地上での働きの最終盤で、イエス時代のユダヤ人の不信仰が確定していました。

「イエス時代のユダヤ人が犯した『メシア拒否』の罪とその結果について言及する」という「マタイの福音書」全体の文脈を汲み取れば、ここでイエスによる「第二神殿の崩壊(エルサレム陥落)」の預言が登場することは自然なことであり、むしろクライマックスであるとも言えます。

※次回「聖書的終末論⑥第二神殿崩壊の預言(中編)」へ続きます。

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