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鎮痛剤としての執筆行為

iPhoneのメモには何本もの未完の小説や、ポエムチックで読み返す気も起こらない膨大な量の雑記が記録されている。十代からはじめたこの習慣は30代に突入するいまでも続いており、この先一生変わらないのだろうと諦念している。

フリーライターとして6年。
わたしは相変わらず、文字を書くことで自分を自分たらしめている。

別にライターという職業に執着はない

ライターとして独立したときは、正直すぐに食いっぱぐれるだろうなと思っていた。そのとき自身が実績を持っており(コンペで賞をいただいたりしていた)、確実にご飯を食いつなげる方法が偶然ライターだったのだ。

そしてこの職業に執着はなかった。死ぬまで何かしら文字を毎日書ければいいと思っている。それが有償だろうが無償だろうが、評価されようがされまいが。

そのためクリエイター系でよくある「表現したいものと求められるもの」のギャップで悩むこともなかった。
前提としてわたしはプロとしてお金をいただいている。ならば求められるものは確実に落とし込んで、クライアントが満足できるクオリティまで仕上げなければならない。そこに自分の欲などない。
書きたいものがあるなら、夜中にこそこそ書いて、こそこそ発表すればいいじゃない。誰にも評価されなかろうが、表現できてるんだから十分よ。

自分語りのキモさ

この仕事に就いたからというわけではないが、自分語りの文章に引いてしまう。端的に言うとキモいという感情か。
有名人ならまだしも、名も無き一般人の自分語りブログに需要はない。ライターとブロガーの一線を画す指標のひとつに、事象を切り取るカメラ位置を考慮できるかという点があると感じている。

一般的なインタビュー記事は三人称で進めることが多い。カタログ系や商品紹介系も同様に。これは比較的簡単な手法だ。自身と事象を切り離して、物事が正確に伝わるよう書き進めばよい。

一方、主観を交えて執筆する場合が難しい。よく「やってみた」記事などでは、実験→考察→感想と客観と主観がシームレスに繋がる構成を取ることが多いのだが、気を抜くと自分語りでサムくなる。なんなら自己ツッコミをしてしまうと、完全にウワッやっちまった感を否めない。

だからこそ、オモコロやロケットニュースはすごいなと改めて思う。くだらないのに面白い、読了させてしまう力が強い。書き手の主観という一人称カメラを使って、画面酔いをせずに最後まで読者の離脱を防ぐかんじ、圧巻だ。

……と、な〜に自分語りしてるんだと我に返る。パンピーのメディア評論ちっくな文章なんて誰も見たくない。自分を語っちゃってる自分、本当にキモい。「そんなことはないよ」と言ってくれる人は多いが、わたしの本能が拒絶反応を起こすので、それは紛うことなき事実だ。

現実逃避としての執筆

この1ヶ月、ひたすらnoteを更新することに躍起になっている。
それが毎日の心の平穏を保つために有効な術だと気付いたからだ。

わたしはいま書くことで社会との繋がりを保っている。裏返せば「書く仕事が減る=社会に必要とされていない」という強迫観念に駆られているといっても良いだろう。この職業に執着はないと宣言していたのに、この有様は恥ずかしい。ええ、もうすっかり執着してますよ。ライターとして、物書きとして死ぬまで飯を食い続けたい。

今月号の企画で発注がなければちょっと焦るし、のんびり過ごしていると「大丈夫なのかな」と不安になる。金銭的にももちろん不安定だから、このまま食いっぱぐれるんじゃないか、という恐怖が迫ってくる。
(最近、大きなプロジェクトが終わり、お仕事も落ち着いている。裏返せば発注が少ないから本音は怖い)

全てが杞憂だということもわかっている。
長い目で見れば閑散期と繁忙期があるのは普通だし、休めるときに休んどけと言いたくなる。すぐに破綻するような金銭やりくりもしていないし、貯金もコツコツやっている。なのに、ひどく悲観的な主観が見える景色をモノクロにするのだ。

「じゃあもっと書いたらいいじゃん」
近しい人間が言ってくれた言葉で、わたしは酸欠状態の思考回路から逃れられた気がした。金になろうがならまいが、結局なにかしらを書いているのだ。じゃあ、それを発表しなよと、公の場で。

だから最近、熱に浮かされたように書いている。四六時中なにかを書いている。寝ても起きても、何が書けるかを探している。昔の写真や手記を引っ張り出しては、書き起こしている。

結局noteで発表しても何の金にもならない。というか、金にする気がない。だってこれは鎮痛剤の副産物なんだもの。

書くことがたのしい、というか、書くことで主観と客観のバランスを保っている。飯の味がある。夜眠れる。執筆はわたしにとっての呼吸なのだ。

主観を公開し続けることへの忍耐力

「ハァお前、さっきまで主観的な文章がキモいと散々言っておいて、テメェの精神的安定を目指すために主観的な文章をnoteにアップするのは良いのかよ!? 言ってること違くねぇ?」

さて、内なるヤンキーが騒ぎ出した。まったくチンピラのくせして、痛いところを突いてくるから厄介だ。コイツの主張通り、この雑記ではわたしの理性(別にブログなんて読みたくない)と本能(執筆妖怪)がぶつかりあい、文脈が二転三転しているのが読みづらいのだ。そう、このように脈絡のない駄文が続くのが雑記の悪しき点なのである。

とはいえ、このような雑記は滅多に書かないので安心されたし。基本的にnoteは自身でやってみたい企画や挑戦してみたいジャンル、書き残しておきたいことなどを積極的にブラッシュアップさせていく予定で、このような自分語りBBAは極力露出させない。
だってライターの自分語りほど、キツイものはない。

いやぁ、でもここまで書いて、やっと息ができた。胃の腑にあった鉛玉のような不安があめ玉のように解けていった。残念なのか喜ばしいのか分からないが、わたしはこの人生で息絶える瞬間まで文章を書いているのだろうな。

さあ、仕事の執筆に戻りましょう。
あ、もちろんお仕事もお待ちしております! たくさん書かせてください!


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