吐瀉物とわたし―①六本木植え込み篇
嘔吐という行為、自身で行うのはひどく惨めだが、赤の他人が酩酊し路上で吐いている様はなかなかシュールで、面白味がある。
金曜深夜、駅の近くでかがみ込んでいる人と介抱している人のセットを発見すると、どうしてもワクワクしてしまうもまた人のサガだろう。
同時に吐瀉という行為はハッとするほど悲壮感が漂い、目撃した(してしまった)暁にはどこか非日常さえも感じてしまうインパクトを与えるのである。
とはいえ、私は吐瀉行為と仲が良い。
酒の有無問わず、私の人生は嘔吐とともにあったと言っても過言ではなく、人生のターニングポイントにはいつもゲロ、もとい、”おもどし”がつきものだった。
暗いお話をする気はないため、小学生の時に嘔吐が原因で不登校になったお話はまたいずれ。
まずは景気づけ”白昼堂々嘔吐”の話をしよう。
***
六本木で美術展を見た帰りにヒルズ周辺を散歩したときのことだった。
気候も良い時期であったために、屋外ではビアフェスが開催されており、時計は午後4時すぎを指していた。
六本木といえば着飾った男女やバリバリのキャリア家族らが、憩いを求め歩くオソロチイ街で、そのフェスで販売されているビアも、なかなか小生のような貧民文筆女が手を出せるような値段ではない。
「ハァ、小奴らは明るいこの時間から優雅にお高いお酒を嗜んでやがる。解せぬことよ。しょうがない、私は家に帰って第三のビール、金麦様をプシュッとやるか……」
と、嫁入り前の娘が吐き散らしてはいけない日本語を心中で雄叫び、華やかシティーに背を向けようとした時だった。
──アッ、店の裏の植え込みに誰かがいる!
人間がいないであろう場所に人影が現れると、反射的に身体がビッと反応する。しかもここは東京都・港区。狸やネズミは無論、猫さえも居つかぬデンジャラス・トーキョー・セントラルシチーである。まっさか、可愛らしいもふもふなどいるわけなかろう。
恐る恐る植え込みを覗き込むと、ひとりの男性がいた。濡れたカラスの羽のように美しい光沢を放つスーツを着用しており、強風にも耐え抜くといった気合いが感じられるガチガチセットのヘアからは「今日はキメるぜ」といったハンター的心意気が聞こえてくるほどだった。
しかしだ。彼は現にうめき声をあげ、あらぬ液体を吐き出している。
「おお…それはご愁傷様」という気持ち、果てしなき滑稽さ、そして同じ酒飲みとしての切なさが込み上げてきた。決して、愛おしさや心強さを伴うことはなかったのだが。
推察するに彼は今をトキメクおしゃれな仲間と、キラキラしたフェスで休日の午後を謳歌しにきたに違いない。だってそうだ。ここは六本木の中心地、赤羽や立石、小岩などとは違い”合法的に吐ける街”ではなかろうに。そして日が昇っている時間帯にほろ酔い状態になることで、アクセルべた踏み状態でクラブへ洒落込もうという魂胆だ。
ところがどっこい。こんな太陽も明るいうちから吐いちゃって。
弱いのなら無理するんじゃないよアンタ。ああ、きっと君がいま口から噴出している液体は、私は普段飲んでいる発泡酒の数倍の値がつくのだろう。「ばかだねえ」の小言を吐きながら、背中のひとつでもさすりたいもんだ。
ゲロを吐くときはみんな必死だ。ふざけて笑いながら吐瀉物を撒き散らす人などいない。どんな原因で、どんな環境であっても誰もが必死に吐瀉物と向き合っている。そのひたむきさが、どことなく胸を打つ。
しかし、そこには彼の背中をさする仲間は誰もいなかった。必死に自らの吐き気と孤独に戦い続ける背中の向こう側には、何も見えていないように浮かれ踊る男女の姿が、これから盛りを迎える大都会に浮かび上がっているだけだった。
***
吐瀉物の話は尽きることない。
今後も『吐瀉物とわたし』はシリーズ化することは確実であり、喜怒哀楽様々な吐瀉が登場するので、どうぞご期待頂きたい。
もちろんあなたが食事中で「なんて汚らしいのでしょう」や、他者の嘔吐行為を「ネタにするなんて酷い人間だ」という意見はもちろんあろう。
しかし、私もまた人間。
己が今宵酩酊し道端に転がっていない確証など、どこにもないのだ。