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【1945年6月9日〜】生死の狭間をさまよって③<祖母の手記>

1945年4月〜6月の沖縄戦にて、ひめゆり学徒隊として動員された祖母の手記です。祖父が聞き取りの上、書き起こしたもの(沖縄県金武町の町史に寄稿されたもの)を孫の私が再編集しました。
ひとりの女性が生きた1945年の記録を、現代に格納します。

<前回のお話>


<当手記の前置き>

1945.6.9

6月9日、佐西経理部長から女子軍属と学徒隊に「解散命令」が言い渡されました。

また引率の先生方からも「もうすぐここは最前線になるようだから、学徒隊の皆さんがいる伊原(現在ひめゆりの塔のある一帯)の方へ行く」と告げられ、その夜、直ちに準備を整え、砲声を間近に聞きながら農道を横切り、急ぎ足で真壁(現糸満市)の集落を通って、ようやく伊原の第一外科壕へ辿り着きました。

ここには既に玉城村糸数の陸軍病院分室に配属されていた学徒隊のグループが移ってきていました。南風原で離ればなれになって以来、学友たちとの久しぶりの再会とあって嬉しさで胸がいっぱいになりました。

壕の入口近くには軍医や衛生兵、それに先着の学徒隊グループが陣取っていました。私たちは腰をかがめないと歩けないほどの低い天井、しかも鍾乳洞から雫の滴り落ちる湿っぽい奥の方に入ることになり、少しでも雫がかからないように膝を抱え、背中を丸めてじっとしていました。

この第一外科号は第三外科壕(現ひめゆりの塔)と道路を挟んで南西100メートルほどの近くに位置し、周辺は畑で、壕の入口は松の枝や雑木などで偽装されていました。

ガス弾、轟音、硝煙、悲しい夜

6月10日、学徒隊3年生のグループは引率の先生とともに、からっとしていて居心地のよい第三外科壕へ移っていきました。……【それから5日後の6月19日、不運にも第三外科壕は米軍のガス弾投下に遭い、そのほとんどが若い命を絶ってしまいました。】(原文ママ)

6月17日夕方、砲弾の炸裂音が少なくなり、ほっとしていた頃のことです。突然の轟音、地響きとともに爆風が私のいる壕の奥まで吹き飛んできて、所々に灯されていた薄暗い裸の石油ランプの灯火が一瞬でかき消されました。

壕内は真っ暗闇になり、硝煙の臭いがあたり一面に立ちこめていました。入口近くに砲弾が落ちたようです。入口の方から、さまざまな叫び声と悲鳴が聞こえてきますが、奥にいる私たちは暗闇の中で足場も悪く身動きができませんでした。

ここでも壕の入口近くにいた多くの学友や兵隊たちが犠牲になりました。応急処置をしただけで手の施しようもなく、ただ容態をじっと見守り、励ましの言葉をかけてあげるのが精一杯で、傷ついた学友たちのうめき声と悲痛な叫びを聞きながら、悲しい夜を過ごしました。

小学3年生の孫が出会った”解散命令”【手記に寄せて】

小学3年の夏休みに、初めて祖母の経験した戦争というものに向き合った。いわゆる夏休みの自由研究である。祖母にひめゆりの塔へ連れていってもらい、案内をしてもらった。初めて祖母の手記というものに出合ったのもこの頃だろう。

詳細は忘れてしまった。壕内特有の湿り気のある空気、外に出た瞬間に眼に飛び込む亜熱帯の植物の色。すぐそばにいる祖母が、果てしないほど遠い場所を生きてきたという、絶望的なまでの無力感にぞっとした。

まだ主観と客観という言葉を知る前だったから、ぐわんぐわんと押し寄せる感情の波に耐えていた。いくつもの大波を乗り越えているうちに、ある事実が気になった。

──6月9日の解散命令とは、何だったのだろう。

それまでも戦況は厳しかったが、学徒隊だけの被害状況や祖母の手記を俯瞰して読めば、この日を境に事態は暗澹たる道を辿る。なぜ、どうして、なにがあって、解散命令を迎えたのか。当時、生まれて10歳になる頃出合った疑問はまだ解けていない。

改めて祖母が遭遇した「解散命令」に向き合う。こう印さなければ、どうしても避けてしまいたくなるから、耳を塞ぐ術を捨て去るために、いま文字を綴る。