旅人になっちゃう

<旅行記の真似事・情景の練習>2021/11/19 帯広出張 11:20羽田発・翌11:55羽田着

 デジタル数字に心が折れそうになった。5:00。

 アラームの音で開いた目を、もう一度閉じる。眠気はあまりなかったけれど、まだ日の出前という事実が重い。薄いカーテンの向こう側に、夜の香りを感じる。

 支度を終えて部屋を出たのは5時半を少し過ぎた頃だった。ドアの傍からカードキーを抜くと、ほどなくして部屋は暗がりに包まれる。薄暗い室内で壁にかけられた墨絵に目が向いた。地元のアーティストの作品。まだ黒い空に反比例するように明るい廊下を抜け、ホテルのエントランスをくぐった。

 さむい。

 ビジネスホテルが軒を連ねる帯広駅前は、本州の地方都市のような侘しさがなく、流しのタクシーにも不思議な余裕があった。悠然が街路の隅々にまで行き渡っている。どこかみずみずしくもあり、昨晩は花街の意外な賑わいに驚いた。道の両脇に並ぶそうした店は、今、ようやく休みを迎えようと心地よい疲労感を漂わせる。

 オレンジ色の看板を頼もしく灯すセイコーマートでコーヒーとヨーグルトを買って、駐車場に向かった。カフェラテの温もりにあてられたのか、寒さは体の芯まで届き始め、冬がなんだったのかを思い出す。毎年のことだ。

 もう二度と冬なんて来ないでほしいと願いながら車に乗り込んで、Bluetoothを繋ぎ、目的地を入れる。向かうのは豊頃町という、ここから最も近く、海が見えそうな町。来訪の時期がもう少し遅ければジュエリーアイスという氷が浜に打ち上げられる、美しい景色が見られるという。日の出を見ようと思っていたけれど、東の空はすでに橙色に染まり始めていた。暖房の設定は29度。

 ここは平らだ。市街を抜けると、実感する。空に突き刺さろうとでもするようにまっすぐ伸びる針葉樹の垂直と、一切の凹凸を許さずに切り拓かれた田畑の水平。直線的な景色に変化を生み出すのは川の役割で、十勝川、札内川、そして名もなき川を幾度も越えてゆく。冬になればここには氷が張る。北海道の川が好きだ。本州の大河にはない過酷さを湛え、多くの生命を育み奪う。かつては川があったなら、もう対岸に渡ることは叶わなかったはずだ。決して手の届かない、川の向こう側。アイヌたちは、開拓民たちは、一体なにを想ったのだろうか。

 いよいよ太陽がはっきりと顔を見せ、それが丸いという当たり前の事実を、目で認識する。木々が姿を消し、家々は雪よりも風と戦うために屋根を三角ではなく平らにする。車道の脇には銀色の風よけが立ち並び始めた。あたりには漂う潮の気配。

「ジュエリーアイス」の看板を見つけ小道に入ると、すぐに小さな橋があった。そばに車を停めて橋を渡ると、そこは浜と水平線があった。前のめりに進むと足元が滑る。茶色く錆びた橋は凍っていた。渡り切って、湿り気を帯びた砂地に足をつけ、革靴で来たことを後悔しながら歩を進める。浜辺にはいろいろなものが打ち上げられていた。たくさんの丸い貝、流木、ビデオテープのケース。ゴミは多くなかった。目の前に広がるのは太平洋で、その先には人間がいない。

 波打ち際までくると、いよいよ太陽は大きかった。濃い鬼灯色が空を染めている。海は青ではない。押し寄せる波は最期に白く泡立って、それが本来の透明さを強く主張していた。

 綺麗だった。

 目の前の景色はあと数分もしたらまた別の顔を見せるのだろう。だけど伝えてくれるのは人間には手の届かない、永遠の力だ。波の音がゆったりと、何度も、鼓膜を揺らす。わたしはそれに、目を、耳を、肌を、さしだした。

 先程の橋は海辺の用水路にかかっていた。津波対策だろうか、それに守られるようにして建つ家々には水産加工の文字が並ぶ。北国特有の二重扉、軒先にはたくさんの、たくさんの軍手が干され風に靡いていた。海で暮らす人々の濃い気配。そろそろ彼らの一日も始まってしまう。車に戻り、一般道で時速100km近くだしながら帰路についた。立ち寄った地元のパン屋では、おじさんがパンをたくさん買っていた。誰と食べるのだろう。わたしの手には十勝の豆を使ったあんぱんと、十勝のチーズを使ったデニッシュ。

 車を停めたところでホテルのカードキーをなくしたことに気づいた。あらかた探し回ったのちに潔く諦めてホテルのカウンターで詫びる。弁償は思ったより安く胸を撫で下ろしたけれど、おかげでバスには乗り遅れてしまった。もう空港へのバスはない。宿をでて少し歩き、駅前でタクシーを捕まえた。

 右手の窓から、雪化粧をした峰が目に入った。このあたりではすでに雪が降っていて、日高山脈には積もっていると訊いていた。あれがその、日高山脈だろうか。運転手は50代の少し気恥ずかしげな年配の男性。

「運転手さん」
「はい」

「右側に見えるあの、雪の積もった山はなんというんですか」
「あれは日高山ですよ」
「雪が積もっているんですね」
「山の上はね。こっちはまだ積もりはしない」
「やっぱりすごく積もりますか」
「どうかな、見慣れてしまって。毎年のことだからね」

 そんな会話ができたらいいのだけど、あいにくそんな勇気はなかった。Googleの地図で調べると、やはりそれは日高山脈だった。美しかった。

「ありがとうございました」
 やはり気恥ずかしげな声を背中に、タクシーを降りた。日が高くなって空気は温まり、朝の厳しい寒さは形を顰めている。お土産に十勝牛のハンバーグを実家に送った。

 スマートホンを見ると、9:45。まだ午前10時をまわっていない。一日はこれから始まる。

 デジタル数字に心が躍った。

なーんちゃって。

はーあ、息が詰まっちゃうわ。早起きして海を見て、気分でパンを買って、カードキーを無くした、というだけのお話。

だけれどこんなふうに文章に挑戦したくなってしまうくらい北海道の景色は綺麗で、雄弁だったのでした。きっとまた、ジュエリーアイスを見に行こうと思う。

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