初めての通知表
図工
ぼくは子供の頃にできなくて、今もできないことがたくさんある。その代表格といえば、図工と体育と音楽だ。
中でもはっきり憶えている挫折がある。図工だ。図画工作をやる時に、家から持ち寄ったり用意された材料でなにかを作ったあの授業だ。
初めて小学校で通知表をもらった当時、ぼくは引っ込み思案の怖がりで少し繊細だったからか、家で工作したものはなんでも両親が褒めてくれた。要するに珍しくもない、甘やかされていたのだ。
だが、初めて通知表をもらった時、ショックだった。図工の評価が"もう少しがんばろう"だったのだ。今まで幼稚園や家で遊んで満足していたことが実はすごくチンケな物だったことに気付かされショックを受けたのだ。
当時、末期の肺癌に侵されていた父が一時的に自宅療養をしていたため帰宅後に通知表を見せた。図工の評価にショックを受けたことを伝えた。
「なんでだろうねぇ お父さんはしょーちゃんが作るものはすごいと思うなぁ」
そう言われた時、唐突に色々と理解した。
これから父がもう死んで、いなくなること。
愛してくれているから、どうしても甘やかしてしまうこと。
世間には尺度というものがあって、自分は無邪気に目を逸らしていたこと。
無邪気だから、周囲がぼくを傷つけないように気を使って、困らせてしまっていたこと。
そんなことを理解したからといって、学校というものを卒業するまでの間に図工の成績が良くなることはなかった。今でも自分で芸術分野の表現をするのは苦手だ。ぼくの人生はそんなドラマティックに進むことはほとんどない。
日本では多くの児童たちが前回の通知表で得たショックを胸に、また次の通知表までの時間を再開させていることだろう。
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