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嫌われる自分に向き合うこと

2週間ほどの冬休み、仕事のことから徹底的に離れようと思った。自分の仕事はアプリのデザインで、デザインというのは色んなことを体験し学ばないといいものが作れないんだと思ったことがあったから。

そんな冬休みの途中、一冊の本を読んだ。友達に勧めてもらった最果タヒさんの「きみの言い訳は最高の芸術」だ。

突然だけど、私は人とコミュニケーションを取ることが得意ではない。初対面の人なんて特に苦手で何を話せばいいかわからなくなって考え込んでしまうことがほとんど。でも3回くらい会えば楽しい気持ちになって心を開いてしまうことが多いんだけどなあ…。

どうして苦手なのか。本に書いてあった言葉がその答えだった。

できる限り相手を不快にさせないように、それを第一に考えて対応をする(そもそも本音をぶつけられても困るだろうな、と思っていた)。それは優しさでもなんでもなく、相手の「不快」から逃れる手段でしかない。でもそれが礼儀だともどこかで思っていたんだろうなあ。
引用元:最果タヒ「きみの言い訳は最高の芸術」

「嫌われるかもしれない」怖さで自分の言葉が出てこない。だから誰かと話していてもどこかマニュアルじみた言葉でしかコミュニケーションを取れていないような感覚になる。結果的に人といる自分が嫌になってくる…闇ループ!!!

そんな中、最果タヒさんはこんな言葉も記している。

「他者に嫌われる」ということを恐れる時点で、「現時点では自分も好かれている」と考えているのだから図々しい、というのはアンタッチャブル柴田さんの言葉だけれど、でも実際、「嫌われる」ということをそこまで恐れる必要はないのだろうと今は思う。
引用元:最果タヒ「きみの言い訳は最高の芸術」

確かに、「好かれている・好かれるはず」と思っている空にある期待値が自分の行動を縛っているのは間違いない。自分がかわいいんだろうなとナルシズム的に心の奥底で思っているからこその行動かもしれない。

ではどうすればいいのか?

ただ自分が嫌われる程度で済む話であるなら、その可能性まで選択肢に入れるのはコミュニケーションとしてむしろ誠実なのかもしれなかった。
引用元:最果タヒ「きみの言い訳は最高の芸術」

最果タヒさんはこの章で、「不快」から逃げるコミュニケーションの価値観を打破したきっかけに、「快」「不快」のメリハリをうまく使った関西で出会ったコミュニケーション方法をあげていた。相手が怒らない程度に嫌に思うことをあえて口に出して、相手の本心を言いやすくする、そんな方法らしい。

「嫌われる」と思って出す言葉や態度はバイトのマニュアルのようになってしまって不誠実さが少し含まれている気もする。「好かれている」と自惚れている自分の存在も少し含まれている。

誰かと誠実に向き合ってコミュニケーションを取るということは、相手を信頼して自分の本音や意見をしっかり伝えることだ。

相手が本音を言いやすくするような場を作る方が、相手にとって「相手を嫌いになる」ことより望んでいることなのかもしれないしね。2020年はマニュアルではない人間らしさをもっと出していきたいと思う。

読んでいただいてありがとうございます!デザインの本の購入資金に当てたいなと思うので支援していただけるととっても嬉しいです!資金で買った本をnoteにまとめたいと思います。