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04:センサーとしての身体─思い込みと現実を感じ分ける

前回は「からだほぐし(全身の脱力)」を通した身体間の非言語コミュニケーションについて書きました。「身体としての自分に出会う方法」という意味では、ウォーミングアップのような感じです。
多くの人の注意力は、場の空気や周囲からのまなざしなど外に向かって拡散しています。まずはそれを、自分の内側(身体感覚)に集中するようシフトする意味合いがあるからです。

今回はもう少し積極的に相手とかかわるワークを紹介しながら、「頭としての私」と「身体としてのわたし」が他者とのかかわり合いにどう介在しているのか考えます。


押せない身体

ペアになってやるワークで、相手を「押す」というのがあります。こちらに背中を向けて立つ相手の後ろ側から、手を使って相手の身体を押し出します。ただこれだけのワークですが、やってみると深い体験が待っています。

日常生活でだれかを「押す」ことはありますか。満員電車に乗り込むときとか、あまり嬉しくないシチュエーションが多いかもしれませんね。

このワークで数多く出会うのは、「押したふり」をする身体です。

肩や背中や腰に触れて一応は押しているのですが、押された方は「うん、そうですね、押されました」と妙に淡々としています。形だけの見せかけになっていて、「押す/押される」という関係性が成立していないからです。

それでは、どうすれば「押す」ということが出来るのでしょうか。

挿入押すワーク

相手の間合いに入れない

格闘技をやっている人は分かると思うのですが、押すためには相手の間合いに入っていかなければなりません(ちなみに僕は空手をやっていました)。
「押す」ためには、腕を伸ばし切った状態でやっと届く距離では遠すぎます。腕が折りたたまれまだ伸びきらない状態で十分に相手に届く距離まで踏み込みます。それには、相手のスペースに入っていく思い切りの良さが必要です。

このワークをやってみると、多くの人が腕がほぼ伸びた状態でやっと相手に触れる距離で押していたり、近くまで踏み込んだようでも腕を伸ばすのと同時に自分の上体を後ろに引いたりして、力が伝わらないようにしています。

これは「押す」ではなく「押したふり」ですから、相手には何も伝わりません。表面だけそれらしくしただけで、中身が入っていないのです。

実際に押されるとどんな感じがするのかは、じぶんアドベンチャーなどでぜひ体験してください。相手のエネルギーを感じ取れます。僕もある人からは励まされたような暖かさを、別の人からは内に秘める強さを感じました。これをやると、不思議と元気が出てきます。

ふりをすることで関係を拒絶している

押す側が「押したふり」をするだけでなく、押される側が「押されたふり」をするケースもあります。

押されると、「うわ〜っ」という感じで畳に倒れ込むように転がって笑っています。でも、押している側の人を見ると相手を吹っ飛ばすような押し方はしていません。どちらかというと「のれんに腕押し」みたいな感じなのでしょう、「あれ?」という表情です。

これは、押される側の人が「押されたふり」をしているのです。相手はそんなに強く押していないのに、一人で前に突進して倒れ込んでいるのです。「すごく押された!」と強調して演じている一方で、実際には自らの身体を前に投げ出すことで「押される」ことを避けています。

他にも、押した瞬間までで相手との関係性が切れてしまうケースもありました。押した後に、いわゆるフォロースルーにあたる動きがないのです。ゴルフなら、インパクトの瞬間までで、「ボールがどこへ飛ぼうと興味はありません」という感じです。よく見ると強めに押していますが、引き手(押してすぐに引き返す動作)があり、そうすることで係を断ち切っていました。

思い込みと客観的現実の落差

このワークに正解や成功はありません。ただ、自分の身体が何をやっているのかに気付くことが目的です。

「頭の私」は「押す」と決めて押しています。押そうと思って押しているのです。でも、「身体のわたし」は、押す代わりにじつに様々なことをやっています。押し方に優劣はありません。一人ひとり違うだけです。同じ人でも、その日のコンディションや相手によっても変化します。

とはいえ、「押そうと思って押したのに、実際には押していない」という事実は、ある意味衝撃的です。「押す」の部分は、生活の中の様々な行為に置き換えることが出来るからです。何が自分の思い込みで、何が他者と共有し得る客観的現実なのか、もっと注意深くなる余地があると言えるでしょう。

「ふり」では相手とつながれない

純化された「押す」という行為は、こちらの身体の内側にあるものを、対象である相手の身体へと押し出すことです。相手の間合いに入り(つまり自分を晒して)、相手とかかわります。それは「伝える」行為であり、「与える」行為でもあります。

でも、複数の例で示したように、いくら巧妙に「ふり」をしても関係性は成立しません。思い込みの世界の出来事であり、現実ではないからです。にもかかわらず、日本社会は「ふり」で溢れかえっています。うまく「ふり」をするテクニックが売られてさえいるのです。

やさしい言葉で話しているけど困っている人がいても助けない人、平等を訴えつつ身近な人は支配する人、中身が伴っていないのにパッケージだけ立派な商品やサービス、弱者救済を謳っていても最終的には富の一極集中を推進する制度──「ふり」にはじつに様々なバリエーションがあります。

それでも「頭としての私」は、それらを現実だと思い込もうとします。現実との乖離がいつか決定的になる日まで、それを認めようとしません。一方、「身体としてのわたし」は、リアルタイムでそれに気付いています。それをくみ取れるかどうかは、とても重要なことだと言えます。

身体は頼もしいセンサーでもある

そういう意味では、身体は鋭敏なセンサーだと言えます。ノンストップで作動し続け、決して汚れることもなく、しかもいまのあなたに最適化されています。

身体はいつもどんなときもあなたと一緒です。でも、それを尊重するのか、無視・抑圧するのか、決めるのは「頭としての私」です。自由意志を行使するのは、顕在意識とつながった頭としての私の役割だからです。

「身体としてのわたし」からのメッセージは、実際に身体がどのように動いたのかという客観的事実を通して、またどう考えたかではなくどう感じたのかという身体感覚を通して、それぞれ受け取ることが出来ます。どう対話しどう受け取るのか、次回からさらに深めていきます。(続く)

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