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自ら動き出す身体を肯定する─コロナのある世界を生きる③

COVID-19のある真新しい世界では、過去の約束事が通用しない。いままで通りにやろうとすればするほど、道に迷い前に進めなくなる。
情報を集めても答えが見つからず、どう行動すればいいのか分からないとき、人はどうすればいいのか。この新しい世界を自分らしく生き抜くため、この問いに向き合いたい。

結界の砂浜で動き出す身体

薄暗い稽古場の板張りの床に、チョークで結界が張られている。
数メートルの正方形に切り取られたそこは「砂浜」だとされている。あらゆる形容を拒否するために「砂浜」と呼ばれているそこを敢えて換言すれば、それは「即興劇の舞台」だ。

僕は白線の手前で、こちらを見つめる人たちの視線を感じている。まだ集中出来ていないから、線を跨ぐことは出来ない。「自分はどう見られるのか」という考えが浮かんでくるのを静観し、外側に向けられがちな注意を自分の内側に向けていく。
次に「砂浜に入ったら穴を掘るんじゃないか」「砂浜のすぐ先には海があってそこに入るんじゃないか」というようなイメージが出てくる。それらのノイズを消し去るためには、もっともっと「いま・ここ」の自分に集中するしかない。内側へ内側へと。十分に緊張を解した身体が自ら動き出すまで。

やがて、極限まで集中して何もなくなった瞬間、僕は鼻から息を吸い込んで砂浜に足を踏み入れる。踏み出した右足のかかとが板張りの床に沈み込み、足の裏と側面で無数の砂粒を感じている──。

即興の舞台で演じられるのはその人自身

「この舞台で即興で自由に動いてください」と言われたら、あなたはどうするだろうか?
あなたは何もない舞台で「何か」を演じなければならない。準備することも他人を演じることも出来ない。すべての動きが前もって封じられている。それなのにあなたは、人々の見つめる舞台に出ていかなければならない。

普通そんな場で人は何も出来ないし、無理にやれば嘘になる。観客も白ける。自由に動けと言われて本当に自由に動くのは難しい(“自由に動く人”を演じる方がずっと簡単だ)。予定調和の(或いはイメージされ制御された逸脱の)即興は即興ではない。観客が白けるのは、自分に嘘をついた人の動きにまったく魅力がないからだ。

だから、そんな舞台にはそもそも誰も立とうとしない。

それをわざわざやるのが先程の「砂浜」だ。とりあえずそこは「砂浜」だとされているだけで、そこに踏み込んだ瞬間、その時その場で湧き出てくるイメージやアクションが全てだ。すべての準備や約束事を奪われて、その時その場で出てくることだけで動く。頭で考えるのではなく、身体のやりたいようにやらせる。砂浜では身体が主語になるのだ。

即興の舞台でその人が演じているのは、他ならぬその人自身だ。

その瞬間、日常的リアリティを生きてきた自分は相対化され、即興の舞台で動いている見知らぬ主体=身体こそが、本当の自分に置き換わる。

鳥山●私はとにかく、はいったときに、ああ、砂浜だなって思ったんだよね。(中略)とにかくすごい勢いで掘ってたでしょ。ふっふっと息で吹き払うのと手でかき払うのといっしょで。(中略)自分のなかのすべての汚いもの、いやらしいものすべてがそのとき砂だったというか。
 そうやって掘っているときに、すぽんと穴があいたわけ。直径四十センチくらいの穴。それがほんとに地球の反対まで届くような穴だったんだよねぇ。首をつっこんで身を乗り出すと、とてつもなく深い。このものすごく深い穴が、どういうわけかなつかしいっていうか、なんとも言えないうれしい穴だったのね。
真木悠介・鳥山敏子著『創られながら創ること 身体のドラマトゥルギー』太郎次郎社 1993

次に自分が何をするのか分からない場に立つ

僕が集中的にレッスンを受けていたのは、1993年からの数年間だ。レッスンというのは竹内敏晴さんが行っていた間身体レッスン群のことで、僕は竹内さんの弟子である鳥山敏子さんや三好哲司さんのレッスンを受けていた。

心と身体を一元的にとらえ、そこに身体からアプローチしていくのが特徴で、当時は平仮名でひらいて「からだ」と書いていた。レッスンでは「からだが◯◯している」というように、普通一人称で「私」となる主語が「からだ」に置き換わって語られることが多かった。
日常生活で「私は…」と言うとき、それは「顕在意識としての私=考える頭」が主体となっている。しかし、「砂浜」のようなレッスンの場では「潜在意識としての私=感じる身体」が主体に置き換わる(それの関係性を単純化したものが下図である)。

頭とカラダ

当時の僕が切望していたのは、「からだ」が自由にやりたいように動き出せる場だった。頭で考えて越えられるところはすべて越えて、それ以上考えても学んでもどこへも行けないところまで来たときに、僕は自分の身体と出会おうとしていた。完全に自由が保障された場(ひとつの嘘も許されない研ぎ澄まされた場)で、自分の身体がやり出すことを知りたかった。そうすれば前に進めるという説明出来ない確信があった。

ウイルスと共にもう一度自由になる身体

なぜか僕の身体は、制約の多いこの真新しい世界で自由さを取り戻しつつある。

1ヶ月以上前、朝目覚めたときに息苦しさを感じた。この連載の初回で「コロナを思い出したから息が苦しくなった」と書いたが、その後の一連の自分の変化から、違っていたかもしれないと思い始めている。ウイルスがあるから息苦しいのではなく、僕自身の内側に息苦しさはずっと潜在していて、それがウイルスによって引き出されたのではないか。

レッスンに通っていた頃、稽古場=ワークショップ的な空間でだけ生きられる身体を、僕はたくさん見てきた。自分はそうなりたくなくて、れんげ舎をつくった。Inside out──稽古場だけでなく現実世界もありのままの自分を生きて、身体の内側に確かにあるものを日常生活の中に具現化するためだ。

マインドフルネスや身体性が簡単に言葉で説明され売買される昨今において、僕はその安易で表層的な流れに同調せず「やってみせる」ことを信条にしてきた。それでも、現実世界で削られやりきれなかった部分や見て見ぬふりをしてきた部分があったのだ。僕は現実世界の戦いに勝つために、取引出来ないものを差し出そうとしていたのだろう。

身体は宿命的につながりを内包している

COVID-19のある世界は、まるで砂浜のようだ。ノイズに惑わされず踏み込めば、身体が全部やってくれる。僕の仕事は自分の身体がやり始めたことをそのまま肯定すること。そして、自由意志を行使すること(自由意志の行使は顕在意識の仕事だ)。
砂浜に踏み込むようにして、COVID-19のある真新しい世界へと足を踏み入れる。「やめておけ!」と繰り返し教えられるその場所で、この胸いっぱいに空気を吸い込むのだ。

あなたの身体はどうだろうか。動き出しているだろうか。内側で何かをしたがってはいないだろうか。身体は決して事前に答えを示さない。答えなどないからだ。だから肯定するしかない。身体は決して間違わない。僕はそう信じている。

本当に嘘っぽい世の中だ。心にもないことを平気で口にする人が溢れ、空気まで汚れている。でも、本当に汚れているのはウイルスが浮遊する空気ではなく、僕の内側の方だった。しかしそれならば、僕は僕の責任でそれらを浄化することが出来る。

身体は、宿命的につながりを内包している。縁起の意味合いでもそうだし、われわれがだれかの吐き出した息を吸い込んで生きていることからも明らかだ。僕が外に見つけたものは、同時に僕のなかにある。だれかのなかにも。


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