選択肢

「選びたくない選択肢」からの選択を迫られたらどうする?

「え? このふたつから選ばなきゃいけないの…? どっちも嫌なんだけど…」

 こんな思いに、定食のセットメニューから進路選択まで、あらゆる場面で出くわす。まるで「選べない自分がダメ」かのような空気だ。しかし、そもそも質問がおかしいのでは? 選択肢が間違っているのでは?

 そんなときにどう対処すればいいのか、まとめてみた。


カレーを「辛い/甘い」でしか捉えられない人たち

 僕はカレーが大好きだ。レトルトカレー、ココイチのカレー、インドカレー、ネパールカレー、自分でもいろいろなカレーを作る。どれも大好きだ。

 そんな僕に向かって、カレーを食べる前に「辛い? 辛くない?」と尋ねる人がいる。周囲にいる親切な人たちが「そんなに辛くないよ」とか「ココイチの1辛くらい」とか教えてあげたりする。
 しかし、どうなのだろう。カレーというのは「辛い/甘い」という尺度で計ってしまっていいものだろうか? スパイスの配合とか、ベースとなるスープとか、煮込み具合とかで、もう別の料理になってしまう。国籍だって変わる。それを「辛い? 辛くない?」などと尋ねられると、謎のキャラになって、

「うん、そうか…。君はカレーと聞くと辛いか辛くないかを尋ねたくなるんだね。私にもそんな時期があったよ…(遠い目)」

などと、わけのわからないことを言ってしまいそうになる。

 こんなことを書くと、「辛いものが苦手な人もいるんだから、そう尋ねるのは仕方がないよ」と親切な人々は言うのだろう。僕自身も決して激辛王ではないので、言われなくてもそれくらいは分かっている。
 ただ、ここで問題にしたいのは、「質問の設定」についてだ。よくあるカレーに対する「辛い/甘い」という尺度と、僕自身の尺度が違うのだ。いや、尺度というより、解像度が違うのだ。

「間違った質問」をされたときの対処法

 世の中というのは、自分にぴったりの質問を、なかなか投げかけてくれない。自分自身の内奥に迫るような質問に出会えたら、それだけでもう啓示のようなものだ。それでは、そういう間違った、解像度の低い質問をされたときに、どう対処すればいいのだろうか?

 進路に対する質問などは、間違った質問の見本市のようなもので、質問をされただけで元気がなくなってしまう人も多いだろう。

「就職する? 進学する? それとも起業する?」

と尋ねられて、気持ちが上がる(エネルギーが湧いてくる)人はいいが、居心地が悪く感じたり、気持ちが下がる人もいるだろう。そんなときは、「この質問そのものが間違っているのではないか?」という問いかけを、試してほしい。

「質問が間違っている? なにを甘えたことを。ただ逃げているだけじゃないか」

 と言う人もいるだろう。他人から言われなくても、内省的な人は、自分で自分をそう問い詰めてしまっているかもしれない。

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選択肢を“高解像度”で解析し直す

 ここでぐっと解像度を上げて考えていきたいのだが、「逃げてはダメ」というのは、本当だろうか?

歯が痛い→歯医者に行きたくない→痛み止めのんで寝ちゃう

 この行動は、ちょっとした先延ばしでしかない。すぐにまた痛くなるし、痛み止めでは虫歯は治らない。治療から逃げている。批判されるべき態度である──というのは、低解像度で眺めた場合の真実。

歯が痛い→歯医者に行きたくない

 この部分を高解像度で眺めると、なにが見えてくるだろうか?

 以前歯医者に行ったときに、医師にすごく嫌な態度で接されて、「嫌だな、なんだか怖いな」と思ったのかもしれない。麻酔を打つときの痛みが苦手で、麻酔のことを考えると足がすくんでしまうのかもしれない。

歯が痛い→歯医者に行きたくない(低解像度)
歯が痛い→麻酔注射の痛みを思い出す→治療はしたいが麻酔が怖い→歯医者に行きたくない(高解像度)

 さて、こうなると、対処方法が見えてくる。
 麻酔の注射が怖いなら、「通常とは違う麻酔を使ってくれる歯医者を探す」という方法もある。笑気麻酔、痛くない注射、全身麻酔…調べればいろいろ出てくる(例えとして歯科治療をあげていますが、筆者は歯科治療にも麻酔にも全然詳しくありません)。

歯医者に行く/行かない

という二者択一が、

歯医者に行く/麻酔が苦手な人対応の歯医者に行く/行かない

という具合に、バリエーションが増えてくる。

 この設問なら、考慮したくなる。なぜなら、心の底では、虫歯をちゃんと治療したいという気持ちがあるから。でも、その気持ちをそのまま表現しようとすると、邪魔が入ってしまい、表現出来ない。結果として「虫歯が痛いのにいつまでも歯医者に行かないバカな奴」に見えてしまう。

自分の「内側」にも注意を向けよう

 僕が大学を卒業した1993年。就職難の時代で、僕は「どこでもいいから就職する? それともフリーターになる?」という二者択一を迫られていた。しかし、僕は仲間と共に、地域の子どもたちのための団体を設立して、それを仕事にすることに決めた。
 いまはソーシャルビジネスとかNPOとか言われるジャンルがあるし、様々な働き方が紹介されているが、僕が大学生だった頃には、そういうジャンルは存在しなかった。NPOという言葉もなかったし、「NPO法人」という法人格さえなかった。

 そんなときに、提示された選択肢の外側を選ぶためには、なにが必要か?

 秀でた能力? コネ? 勇気? 起業家マインド?
 僕はどれも違うと思う。必要なのは、自分の正直な気持ちを、これ以上ないというくらいに丁寧に見つめることだ。解像度を上げまくるのだ。

 その人が解像度を上げて自分自身を深く見つめているとき──。他人から見たら「なにもしていない人」に見えるだろう。なにかから逃避して、やるべきことをやらず、怠惰に暮らすダメな奴に見えるだろう。
 僕自身も「なにもしていないようにみえる期間」が、それなりに長く続いた。世の中に対して、周囲の人に対して、なにも提出できるものがない。僕自身には「やっている実感」はあるのだが、それがどこにたどり着くのか、高解像度で眺めたときになにが浮かびあがるのかは、解析を待つしかないのだ。

 でも、「実感」があるのだ。自分のやっていることを自覚していれば、そういう低解像度の視線にも耐えることが出来る。あんまりうるさい人がいたら、そういう人とは距離を置けばいい。大切なのは、自分が前に進むことで、他人に認められることではない。

 与えられた選択肢が間違っていると気付き、新たな選択肢を導くためには、自分の内面を高解像度でスキャンしていく必要がある。

なにがやりたいのか? どこが好きなのか?
なにがやりたくないのか? どこが嫌なのか?

 解像度をどんどん上げて、掘り下げていく。そうすると、譲れない部分が見えてくる。譲れない部分が見えてくるということは、じつは妥協できる部分もたくさん見つかるということだ。いままで「これはないな」と思っていた方法も、「意外にありかも」などと思えてきたりもする。
 自分が大切なことを譲らず、どうにでもなることだけを妥協していることが分かるので、自信を持って行動することが出来る。

 人は、外側を見ているようで、じつは外側を通して内側をみている。内面に対して低解像度のままでは、世界は不鮮明なモザイクでしかないのだ。どのような世界で、どのように生きるのか。それは自分で選べる。


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