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「自分との対話」をしたつもりになる恐ろしさ

「自分と対話しましょう」みたいな集まり、ツール、ワークなどが増えたなと感じます。流れに乗っていけばなんとかなるという時代じゃなくなったので、「自分としてはどうしたいのか?」が問われるようになったためではないでしょうか。ただ、そうしたニーズが出てきたとはいえ、本当に「自分との対話」が行われているかというと、大変疑わしく思います。


ワークシートに記入すれば自分が分かる?

僕には、「長年、自分との対話を並々ならぬ密度でやってきた」という自負があります。自分との対話から出てきた答えは、行動することで輪になります。僕は、ずっとそうやって生きてきました(ガチです)。

そんな中で、「自分と対話しましょう」みたいなのが増えたなと感じています。よくあるのは、ワークシートみたいなのがあって、アンケートでも書くみたいにしてそこに書き込むことで、自分を知る、自分と対話するというやつです。

もちろん、ただぼんやしていていは自分と対話など出来ませんから、こうしたワークを通して、自分に目を向けることには一定の価値があります。でも、そこで出てきた答えを鵜呑みにするのは、大変危険です。

実際は「自分のなかの他人」と対話している

そうしたワークにもいろいろなものがありますから、一絡げには出来ませんが、総じて「頭で考えて書く」ということが主になっています。頭で考えるというのは、人としての重要な機能ですが、その人の全体性と比較すると非常に限定的な範囲しか扱えません。

多くの人の頭の中には、「こうしなければ」とか「こうすべきだ」というような常識や社会通念が詰まっています。それらはたいした根拠もなく植え付けられたもの。いわば、自分の心に侵入を許した「他人の考え」です。

自分と対話しようと思っても、多くの場合、こうした他人が代わりに答えてきます。それを「自分の願い」だとして、人生設計や事業計画を立てれば、より自分自身から遠ざかることになっていまいます。

自分とは「感じること」で対話する

それでは、どうしたら自分と対話が出来るのでしょうか?

まず大前提として、それには「感じる」という方法が必要になります。「感じる」というのは、感情や身体感覚のことで「気落ちが上がる/下がる」のようなバロメーターとしても機能します。

頭で「正しい、コスパもいい、こうすべきだ!」と考えても、同時に「気持ちが下がる」と感じるならば、それはつまり「やりたくない」ということです。実際にやるのかやらないのかはそれぞれの選択ですが、それが真実です。「感じる」ということを中心に置くことで、やっと自分の本心と対話が出来ます。

重要なのは、「感じること」は自分では選べないという点です。好き/嫌い、美味しい/不味いなど、いずれも自分では選べません。それはまさに、本当に自分の正直な言い分です。それを聞くことが、自分との対話のスタートになります。

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