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コンビニエンス・ラブ

「愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ」

スピッツ『運命の人』の一節。とても有名なフレーズ。

ちなみに私は、このMVの音源よりアルバム『フェイクファー』ver.の方が好き。

この曲を初めて聴いたのは、小学4年生か5年生頃のこと。
別に歌詞の意味は分からないけど、歌メロもイントロのフレーズも展開も全てが良いので、その頃から今もずっと好きな曲だ。

当時は、「愛はコンビニでは買えないだろ〜」くらいに思っていたけど、今は少しだけ聴こえ方というか、自分への響き方が違う。

愛って、簡単に買えちゃうよなあ。

スマートフォンの画面上で、なんだって出来ちゃう。
LINEで好きでもない人に簡単に好きって言えるし、言われるし。
マッチングアプリで素性も本名も知らない人と会う約束をして、お互いの合意の下に身体を合わせられるし。
ネット予約と代金の支払いをすれば、家まで癒しを届けに人が来ちゃうし。

愛って、簡単に手に入ってしまう。コンビニエンスな愛。

愛の大きさとか深さとか、そういうのは正直分からない。
数十年前に生きた人がそれを分かっていたかも分からないけど、少なくとも様々なことが便利になった現代では、より分かりにくくなっている気がする。
(そういう意味で、1997年にこの歌詞を書いている草野マサムネは恐ろしい)

だから、こと現代において、愛の価値を測る指標として、その愛の提供方法は結構大事なんだろうな、と思っている。
コンビニにも流通させられるけど、あえて成城石井にしか置かない、みたいなこと。その方が、同じ中身でもなんか立派そうに見える。

立派そうに見せたかったり、でも簡単に手に入る方を先に買われる不安があったり、多分そういうバランスの上に、世に言う“駆け引き”的なことが行われてるのだろう。

『運命の人』の歌詞を借りると、「無料のユートピア」が現代には溢れている。
人を傷つけない限り、それは別にあって良いし、あって然るべきだとも思う。何より、人に欲がある限り消えない。
ただ、それを「無料のユートピア」であるとしっかり認識していれば、きっといつか「汚れた靴で通り過ぎる」ことができる。

綺麗な靴では何処へも行けない。
靴を汚した人だけが、「この地球の果て」まで走って行ける。
だから、あなたの汚れた靴だって、美しいよ。

都合の良い解釈をした。
スピッツファンの皆さん、どうか怒らないで。

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