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さみしさに強くなる

ここ最近、
さみしさに強くなったなぁ、と自分で思う。


1人も楽しい。
みんなとも楽しい。
どっちも楽しいのだ。


昔は全然ダメで、
彼氏と別れると友達と飲み歩き
彼氏ができると友達と疎遠になり、
また別れると…というのを繰り返してた。

1人の時間を持て余し、
友達と電話したり旅行したり。
それはそれでいいんだけどさ。
なんだか、
ベクトルが外に向いてて
「わたしは何がしたいの?」
「わたしはどうして寂しいの?」
という視点が抜けていた。

今思い返せば、
大好きな人と心の交流がしたかったのだと思う。

が、
一番大事にするはずの「わたし自身」と
わたしは心の交流はしてなかったのだ。


「わたしをみて」
というのは、
生まれたての子供のときからの欲求だ。

ちいさいときは、
みてもらえないと世話してもらえず、
死んでしまうからこそ、
人間には本能的に「私を見て!」という叫びが組み込まれてるんだと思う。

だって生きていけないもん。
赤ちゃんは1人じゃ無理。
多分小学生くらいまでは、本来1人でなんて生きていけない。

だから、
「わたしを見て」という承認欲求が強くなるんだと思う。

大人になるに連れて、
「私を見て」という側ではなく
「見てるよ」という側にシフトするんだろうけど

上手くシフトできない大人が多いなぁと、
今改めて思う。

まぁ、SNSのせいだろうね。

フォロワーの数とか
再生回数とか、
リアルに数字に出ちゃってて、
社会的に〜っていう山羊座的意識が強すぎる。


他人は大事。
他人がいないと、「私」がわからなくなるから。

でも、理解しあえるって視点でいると、苦しくなる。
自分が産んだ子でさえ、よくわからないのに、
他人が、全部理解できてわかりあえるなんて烏滸がましいよ?

近づいても大丈夫な距離感で接するのが良いのだ。


依存してもいい。
さみしさに強くなってもいい。

とはいえ、
寂しさがスタートで始めたことは、あんまりうまくいかないと思う。

でも、
潜在的に、みんなが寂しさを抱えてるから
煽り広告で購入したり、
出会い系サイトで探したり、
優しいSNSみたいなものが流行ったりするのかもしれない。
家に帰っても寂しいから仕事に打ち込む。
1人は寂しいから繋がりを求める。
帰宅しても寂しいから出会い系にのめり込む。
寂しいから満たしたくて爆買いしたり、食べ続ける。

心の中の…
なんか空虚な風通しの良すぎる穴は、
さみしさを乗り越えた先に
どうでもいい穴になったり、井戸になったりするのだ。
やる気やお金の湧き上がってくる井戸だねぇ。


さみしさを乗り越える、というより
自分の中のさみしさを飼い慣らす、の方が近いかも。

幸せだなぁと感じる瞬間が増える気がするからさ。

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