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誰のためのパラリンピック?~津久井やまりゆり園での聖火の採火中止によせて~

聖火の採火?なぜみんな怒っているの?


3月末に「採火に反対してください」と障がい者団体からメールが来た。
「神奈川県の相模原市の津久井やまゆり園で、パラリンピックの聖火の採火を行うことについてで、その呼び掛け文を一度ぐらい読んでも、何が起きているのか、理解できませんでした。そもそも「聖火の採火」と聞いても、最初は何のことかさっぱりわからなかった。
私の秘書は一人で爆発したように怒って、その場で相模原市のパラリンピック担当部署に電話をかけていた。私は驚くばかりであり、「何をこの人は怒っているのか」とパニくった。

だんだん私も腹が立ってきた


しかし、何度か読んでみて、19人もの障がい者が殺された場で(殺傷者全体では45人)、聖火のお祭りのようなことを行うのは、喜びの花火を上げるようなものだ、と考えがだんだんまとまってきました。時間が経つにつれ、腹が立ってきました。
「やっぱりこれはいけないことだ」と、次の日から反対するメールをあちこちに送ったり、マスコミの人たちに「反対の記事を書いてください」と呼びかけました。

差別が日常的にあると、どう反応していいかわからない時がある


最初は、あまりみんなの反応はなく、「私の考え方がおかしいのかな」と不安に思い始めました。障がい者差別は、しょちゅうあることなので、このニュースに対してだけでなく、怒っていいのか、泣いていいのか、黙っていればいいのか、瞬時にはどう反応すればいいのかがわからないことをたびたび経験してきた。


やまゆり園での採火を思いついたとき、相模原市長はきっと飛び上がるほど嬉しかっただろう


相模原市の市長が聖火の採火を思いついたときには、飛び上がるような喜びだったのではないでしょうか。きっと「いいアイデアが浮かんだ」と思ったことでしょう。人間の勘違いは人を傷つけ、社会を鈍感にさせます(私にもたまにはそういう経験があるから、わかります。)

共生を象徴する次の場所ってどこ?


遺族の方々が怒ってくださり、ほんとうに良かったです。もっともっと全国の障がい者たちが声を出し、怒るべきだと思います。相模原市の市長は、反省をしているのでしょうか?
また違う「共生を象徴する場所」で採火すると言っているそうです。お祭り騒ぎではなく、殺された方たちの共同墓地を作り、全国の皆さんからお花を送ってくださいと呼び掛けるのが本来の在り方ではないでしょうか。


パラリンピックは、障がい者とは無縁の世界


パラリンピックは、ほんとうに少数の人たちのみが参加できるイベントで、ほとんどの障がい者には無関係です。仕方がなくテレビで観て喜ぶ他ありません。パラリンピックは視聴率が低いから、そもそも放映枠が少ないです。

私は高校の時、床に座り、足指にラケットを持って卓球をしました。その喜びは今でも覚えています。どんなに障がいが重くても、なにかスポーツを研究していくことが、ほんとうのパラリンピックではないでしょうか?

ここまで予算をかける意味の分かる人、いたら教えてください


コロナがひどくなっているのに、オリンピックやパラリンピックをまだ行うと頑張っている人たちがいますが、オリンピックの意味を考えてください。世界の平和を祈ることがオリンピックです。オリンピックのロゴマークは世界の大陸を表し、平和に暮らすことを願うのが本来だったはずです。それが、今ではものすごい予算をかけて、バッハ会長は何があってもオリンピックを行いたいのですね。本音は何なのか、私は毎日考えています。分る人がいたら教えてください。

日本では、病気になっても入院できず、コロナで死んでいっている人がいます。それなのにオリンピックでとてつもない予算を使おうとしています。人間はそんなに愚かだったかぁ、と私は一人考えています。

オリンピックを放映しないなら…


オリンピックをテレビで放映しないなら、昔の映画なら、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」や、映画館に見に行くことの難しい最近の映画をぜひテレビで観たいです。そういうことを考える人がいないことが、また不思議です。



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