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メンタルストーリー(双極性障害Ⅱ型。50年を振り返ってみた③)

こんにちは。アラ50鍼灸師おさむです。

28歳。鍼灸の道に進む。

1995年(平成7年)県内の鍼灸専門学校に入学しました。
学費は僅かばかりの貯金、残りは父親が払ってくれました。
親に反対されていたら今の自分はなかった。そう思うと感謝の気持ちです。
反面、これは自分の厭な一面ですが「これまで親らしいこと何ひとつしてないんだからお金くらい払って当たり前だろ?」という自分もいました。
親に対しての怒りのような感情を減らしていくのは時間がかかりました。今でも「全くない」と言えばウソになります。特に母親に対しては。ここはなんでだろうと自分自身モヤモヤしている部分です。兄と比べて「あの子(私)は信じられない。親に迷惑ばかりかけている」と居間で小声で父と話しているのを聞いてしまい「俺もあなたを信じない」と怒りの感情が湧いてきたのが脳裏に引っかかっているのでしょう。今になって思うと引きこもってた時「話を聞いてほしかった」んだと思います。どうしてこんなになってしまったのか?と落ち込んでいた時に答えなんて出なくていいから「今の思い」を聞いてほしかった。「今日の気分はどう?、散歩でも行ってみる?」そんな言葉があれば嬉しかったんだろうな。腫れ物に触るようだった。遠くから見守っていたのか?私からすると無関心な親としか映らなかった。「自分から親に話しかけてみれば良いのに」と思うかもしれませんが中2以来の親との確執でそんな意欲、期待もありませんでした。「どうせ何を言ってもこの親には響かない」と思い込んでいました。「一つ屋根の下の赤の他人」状態でした。

専門学生時代

28歳で鍼灸マッサージ師の養成学校に入学。当時は「大学よりも専門に行って手に職をつける」時代。なので1クラス30人の半分が新卒でした。半そして分は女性。ウチのクラスは18歳から脱サラ40歳まで年齢層も経歴も多岐にわたってました。スポーツトレーナー志望の人も多かった。同じ志を持った仲間なのでそれなりに仲良くはしていましたが「メンタル疾患を持った男」という過去は誰にも話せませんでした。当時付き合っていた女性にも。言ったら離れてしまう、という怖さがあったんだろうと思います。後の祭りですがここれまでの人生を正直に話していたら、という思いはあります。1年次にクラス委員に指名されたこともあり「いい人」を演じた3年間でした。仲間を作るというより国家資格を取得するための3年間。「勉強して卒業したら(アルバイト先の)病因に就職しよう」と決まていました。

地元の急性期病院に就職

地元の急性期病院に就職しました。ここでは鍼灸マッサージを行うのではなくリハビリを行う仕事。くも膜下出血術後の関節可動域訓練が初めてのリハオーダーでした。大腿骨頸部骨折術後の退院までの歩行訓練、在宅復帰できるように訓練メニューを考えました。「リハ専門病院に転院するためには軽度介助で立ち上がれることが条件。君のリハビリの腕次第」という若い医師からの依頼も適度なプレッシャーでやり甲斐がありました。教科書で学ぶことは医師、看護婦と会話するための最低必要言語で現場で使い物になるためにはコミュニケーション能力が大事だ!と感じていました。一人部署だったのでがむしゃらに働いたのを覚えています。この頃には精神科には通っていませんでした。「鍼灸学校に入って国家試験も取って就職も決まってもう自分は大丈夫だよね」と通院、服薬を自己判断で止めていたのです。心の隅に「過去の自分は知られたくない、しゃべりたくない、一生自分の心の中にしまって生きていく」と決めていました。

こんな自分が結婚できるなんて…

この病院でカミさんと出会い結婚。この人なら気取らず付き合えるなぁと思い気が付いたら一緒になっていたという感じです。思えば彼女と結婚しなければ今この世に自分はいないと思います。断言できます。正しく運命の人だでした。結婚してカミさんのお腹には新しい生命が宿り人生の幸せの絶頂期を迎えていました。自分がメンタル疾患なんて過去の小さなシミくらいに思えるようになっていました。精神科病院に2度入院したこともすっかり過去の出来事。自分はもう精神疾患の患者なんかじゃない、と思ってました。
その後、地域のクリニック、訪問鍼灸マッサージ、リハ特化型デイ、障害福祉施設など活躍の場を広げていきました。

悪夢の再来、そして休職。

時は大幅にジャンプして2015年。私はリハ特化型デイの管理者になっていました。有能な部下がいたおかげで事業所の成績は順調に伸びグループ内でも社長に評価されるほどになっていました。私が転属された時のデイは赤字続きで「閉鎖した方がいいのでは?」と上層部では話が進んでいたそうです。それが1年ほどで他のデイ部門を追い越して売り上げも追い上げる勢い。実はこの頃から自分の中で異変が起きていました。頭の中に靄がかかってうまく自分の気持ちを表現できなくなったり資料や本を読むことが億劫になっていました。緊張感が抜けず翌朝起きるのがしんどい。漠然とした不安感が消えず常におびえているような感覚。連日連夜の残業で疲れがたまってるだけ、と思いましたが双極性障害のうつ期だったのだろうと思います。
ある日の定例ミーティングで「どうにも喋れない。何をしゃべればいいか原稿がまとめられない」不安が増幅しこの日の司会、進行は部下に任せました。部下に感謝。しかしそれよりも「司会、進行もできないくらい駄目な自分」と自分を追い詰めていました。すべてのことに対してネガティブ、マイナス評価しかできない。周囲の人がみんな優秀に見えて自分は無能、何の価値のない人間。そう思うと毎日がしんどい。ルーティン作業をこなすこともままならない。
ここまで追い込まれたら誰かに相談するのでしょう。自分はそれが出来なかったのです。自分の弱みを見せることは「負け」みたいな感覚。「勝ち負け、白黒」をつけたがる性格。完璧主義者。いつも勝たないと気が済まない。人生勝ち続けるなんて無理な話。だったら負けないように冒険はしない、無理をしない。反面、成長することを避けてる自分に腹が立つ。イライラを内側に溜め込む。俯瞰してみれば自分で自分を傷めつけてました。神経すり減らしてる。そこを根性、気合で乗り切ろうとする。体力、気力を削っていく毎日。
「これはまずい」精神科の受診予約を入れました。近くのクリニックはどこも「早くて2週間待ち」の状態。今すぐこの状態から抜け出したいのに「2週間なんて待てない…」焦り、不安、過緊張はさらに高まっていきました。
そして2週間後、受診。先生からは「うつ病で診断書を書くので2か月休みましょう。1か月だとゆっくり静養できないでしょうから2か月としておきます。薬を飲んでゆっくり休む。今はエネルギーが空っぽな状態です。休んでエネルギーを補給しましょう」と言われました。先の見えない不安、焦燥感、過緊張、周囲の目を異常に気にす。そんな毎日に活力なんて1ミリも残っていませんでした。「あぁ、これでゆっくり休める…」受診後、会社に報告。翌日に妻と一緒に社長と会い休職することになりました。
ひたすら眠りました。うつ病の人は不眠の症状を訴える人が多いですが私の場合は「過眠」。トイレに起きる以外はベットの中。1日16時間は寝ていました。目を開けたら外の世界をみえる、見たくない。一人になりたい。そんな気持ちから目を開けるのが怖かったのです。

妻に精神疾患の過去がばれる


「うつ病」と診断され2回目の受診時に妻も同席しました。そこでうつ病は初発ではなく入院歴もある事を妻は初めて知ることになるのです。しかも妻が現在勤務している精神科病院に入院していたと聞いて妻は気が動転、怒りで声が震えていました。そして私の実家に直行。両親に対して「なぜ結婚する時にこの事実を教えてくれなかったのか?」両親を問い詰めました。私にではなく両親に怒りをぶつけたのです。「おさむが話していると思っていた」うなだれる両親の顔を今でも覚えています。

診断書を書いてくれた先生との相性が良くないと察知した妻は主治医探しに奔走しました。精神科病院の同僚、先生にも相談をしていたようですが自分の勤務している病院での受診には難色を示しました。職場で働いている時くらいは私のことは忘れ仕事に集中したかったのです。。私自身も闘病していますが家族は見守るだけなのでもっと苦しかったと思います。子供たちも受験を控えたり部活に励んだりナーバスな時期だったのでつらい思いをさせていたと思います。しかし当時の自分には家族を思いやる余裕などありませんでした。
休職中は寒い季節でした。はっきり何月という細かい日にちは覚えていません。だた16時に起きてテレビの再放送を見て夕飯を食べカミさんが台所の片づけを終えたころ一緒に散歩に出かけました。休職して2ヶ月が過ぎたころだったと思います。

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