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夜行バス⑦

 夜行バスに乗るのは何度目だろうか。
 彼はリクライニングシートに身を埋めながら、頭の中で数えていた。はじめて乗ったのが一ヵ月前。それから今回を合わせて六度目だ。往復を合わせると約十万円の出費。彼の財布にも通帳にもはじめからそんな金はなかった。なんとかかき集めた十万円。借りた相手に返すつもりはない。それに今回が最後だった。このまま東京に到着すれば、再びこの街に帰ってくるための金はどこにもない。
 もう帰らないつもりだった。姉にもそういう意志のメールを送った。母も姉も、彼があの街に居続けることを誰も望んではいない。そして彼自身も望んでいない。闇化される前に彼は逃げたかった。逃げて、あの彼女と二人で新しい暮らしを始めたかった。
 一緒に暮らすつもりだということはまだ彼女には伝えていない。でも彼女ならきっと頷いてくれるに違いないと彼は信じていた。会いにいくと、彼女はいつも新品のような綺麗な服を着ていた。そして窓から光が降り注ぐ片付いた部屋で二つのクッションを用意して待っていた。発売されたばかりのCDをミニコンポにセットして、長時間のバスでかちこちに固まった彼の体をほぐすためにホットミルクを用意してくれた。
「今日は行ってみたいところある?」
 情報誌を広げて彼女が寄り添ってくる。せっかく遠くまで来たのだからどこか行ってみようよというのが彼女の意見だった。だけど彼はどこにも行きたくなかった。行ってみたい場所なんてなかったし、どこに行っても結局は同じだと思っていた。どこかに出かけるぐらいなら、彼女の部屋の柔らかいクッションにずっともたれていたかった。
 そんなとき彼女はつまらなさそうな表情を見せる。ぱたんと情報誌を閉じ、彼と同じようにクッションにもたれかかる。そのときの、つまらなさそうなふりをしているような横顔を見るのが彼は好きだった。彼は彼女に何か言葉をかけてみる。そして彼女の指に触れ、彼女の耳に触れて、新品のような彼女の綺麗な服に触れてみる。
 そんな新しい暮らしを思い浮かべながら、彼は真っ暗な夜行バスの中で夢を見ていた。
 バスは抑制を失ったように夜の高速道路を百キロ以上のスピードで走り続けていた。すでに彼の住んでいた街を発車してから何時間も経過している。何時間も同じアスファルトが続き、同じオレンジ色の照明が続き、同じ緩やかなカーブが続き、同じ防音壁が続いていた。そんな固く冷たい風景がどこまでも走っても果てしなく繰り返されていた。だけどバスの乗客たちはそのことに気づいていない。目を閉じ、電源を切られたように眠り続けている。窓はいつものようにカーテンがぴたりと閉じられていた。もしかしたら同じ場所をぐるぐる回転し続けているだけなのかもしれない。本当はどこにもむかっていないかもしれない。
 誰かが一人、窓の外からじっと覗いている。真っ黒な人影の誰かだ。人影はバスの側面にぴたりと張りつき、いちばん後ろの窓から車内の様子を窺っている。その窓だけ少しカーテンが開いているからだ。カーテンの隙間からオレンジ色の照明が素早く規則的に車内に差しこまれる。そのリズムに合わせて彼の顔がフラッシュバックみたいに映しだされる。人影は窓に顔をぐっと押しつけ、目を見開いて、彼のことを興味ぶかげに観察する。彼は眠り続けている。長く真っ黒な髪、少しこけた頬、薄い唇、尖った顎。いつのまにか人影は影そのものみたいに音もなくひっそりと車内に侵入している。そして彼の体の上にぴたりと張りつく。彼はまだ眠っている。彼は人影を払いのけることができない。自分が見ている夢の中でも彼は眠ってしまっているのだ。いつのまにか乗客たちは全員目を覚ましていて、彼の座席のまわりで肩を寄せ合うように集まっている。そして無言のまま、無表情に彼の寝顔を見下ろしている。人影は深い穴のような口を左右に大きく開く。そして袋でも被せるみたいに彼の頭を包みこむ。彼は人影に飲みこまれるのを止めることができない。彼は結局、闇化されることを止めることができない。
 そこで夢から覚めた彼は、バスの隅々にまで響き渡るぐらいの叫び声を上げた。

 早朝の新宿駅はいつもと同じだった。埃っぽい風が昨夜の喧噪の名残を思わせる饐えた匂いを運んでいた。早朝の新宿を歩く人々はみな何か複雑な事情を抱えているかのように足早に通り過ぎていくだけだった。
 バスから降りると、彼は両腕を後ろに大きく伸ばして、深呼吸を二回繰り返した。いつのまにか汗をかいていたようで、背中が少し冷たかった。ときどき右のこめかみの奥に小石が入りこんでしまったような頭痛が走る。こんなことは初めてだった。眠ったはずなのに眠れていないような気がする。彼はまわりを窺ってみた。だがバスから次々と降りてきた乗客たちは何事もなかったように、それぞれの目的地にむかって新宿の中に消え始めていた。
 乗車前に受け取ったプラスチックの札を運転手に渡して、彼は自分の荷物を手にした。ネットカフェに置きっぱなしにするつもりだった重たい旅行バッグはやはり持ってくることにした。なかに入っているのは少しの着替えとくだらないガラクタばかりだったが、あの街に自分に関わるものを残しておきたくないと思いなおした。
 体を斜めに傾けて、指の血流を止めるほどのバッグを運びながら、彼は自分が住んでいたマンションの部屋のことをふと思い出した。そういえばあの部屋はいまどうなっているんだろう。あの狡っ辛い管理人のことだからきっと母親に連絡して、なかの荷物をすべて処分しているに違いない。きっとそうだ。そうしておいてくれた方が助かると彼は思った。彼一人ではとても処理しきれない量だ。処分の費用は母親に請求されているだろうが、高くても五万かそこらだろう。いつかは返せる額だし、返さなくてもいいような額だと彼は思う。
 とりあえず彼女に東京に到着したというメールを送るため、彼は携帯電話を取り出そうとズボンのポケットに手を入れた。その瞬間、胸がざわついた。何も入っていないのだ。上着のすべてのポケットを確かめ、もう一度ズボンのポケットを確かめてみたが、出てきたのはくしゃくしゃになったマルボロとコンビニのレシート一枚だけだった。バッグの中に入れっぱなしということはない。確かにバスの座席についてすぐに彼女にメールを送ったのだ。それならばバスの中に忘れているしかない。
 バスはすでにエンジンを回転させ、五十メートルほど先で信号が変わるのを待っていた。もう昨夜の乗客たちとすっぱり関係を絶ったようにこちらに排気ガスを吐き出している。追いかけるなら今しかなかった。しかしバッグが重すぎる。やはりあの街に捨ててきた方がよかった、このバッグがなくなるよりあの電話がなくなる方が、彼はかなり困ってしまう。
「どうしたの」
_ 彼はすぐ後ろから聞こえた声に反射的に足を止めた。そして振り返ってみる前に、いつか書店で手に取った陶芸の本のことがふと思い浮かんだ。
「……くんだよね。ひさしぶり」
 彼は振り返って、私を見た。そして私も彼の妙に青白い顔を見ることになった。
 声をかけるまでに、私は何秒かためらっていた。別にこのまま声をかけずにすれ違っても問題はない。彼だってどう対応していいかわからないだろう。そもそも私の方にだって話すことはない。それでも私は彼に声をかけていた。
 目の前で居所をなくしたように茫然と立つ彼の姿と、数年前に妻の祖父の葬式で会った彼の姿を頭の中で重ね合わせていた。彼は数年前よりも痩せていた。だけど痩せていること以外にも、昔の彼と違っているところが他にあるように見えた。
「何かあったの? 忘れもの?」
 私は重ねて訊ねた。しかし彼は答えようとせずにバスの方を振り返ったり、チケットの発券センターを窓ガラス越しに覗きこんだり、また私に視線を戻したりしていた。やがて青信号に変わり、バスが低音を響かせて走り去ってしまうと、彼は少し肩を落とした。
「どうも」私と目を合わせずに彼は頭を下げた。
「忘れものだったら、そこで訊けばいいよ。探してくれるから」私は発券センターの事務所を指さした。
「いや。何もないんです。何も忘れてないから」彼は地面を引っぱるように持っていた旅行バッグを慎重に足元に置いた。「何か忘れたような気がしただけなんです。大丈夫。この中に入ってるはずですから」
「それならいいけど」彼のぎこちない答え方に私はそれ以上訊くのをやめた。「ずいぶんスリムになったね。二年ぶりぐらいかな。一瞬わからなかったけど」
「そうですね。たぶんそれぐらいですね」彼はやはりぎこちなく微笑んだ。
 それで終わりのはずだった。あとは適当に挨拶を交わして、それぞれ別々の行き先にむかって別れていくだけだった。私はそれまで夜行バスの中で、彼の過ごしている生活について想像するのが癖になっていた。彼の話すことや彼が付き合っているという彼女のことなどを勝手に思い浮かべていた。彼はやはりポケットをときどきまさぐったり、私と視線を合わせないように空やビルを眺めたりしている。
 朝食に誘っても、彼は断るだろうと私は思った。久しぶりに会った血のつながりがない親戚と、誰が早朝五時の新宿で二人きりで飯を食べたいと思うだろうか。だけど私の簡単な誘いに、彼は首を横に振ったり、曖昧な断り方をしたりはしなかった。ただ、少し間を空けてから申し訳なさそうに頭をちょこんと下げた。
 私はいつも使用しているバーガーショップに行くことにした。十五分ほど歩かないといけないのだが、喧騒から離れたビルの裏側にあって、早朝ということもあるだろうが、店内はいつもBGМのクラシックがよく聞こえるほど静かだった。静かな方がいいと私は思った。彼は私の二、三歩あとをついて歩いた。何も話そうとせず、重たいバッグを平気そうな表情で持ち運んでいたが、ときどきバランスを崩した痩せた体が危なげに揺れていた。春特有の生あたたかい風が吹く朝で、彼の長い黒髪がばさばさとなびいていた。
 バーガーショップのいちばん奥では、水商売らしき女が一人テーブルに突っ伏していた。赤や緑の派手な服装をしていて、一晩中働き続けたような疲労の雰囲気が漂っていた。私はできるだけ女から遠い入り口に近いテーブルに荷物を置いた。そしてカウンターで朝食向けのハンバーガーセットを二人ぶん注文した。彼は何でもいいですと言った。朝食なんて普段は食べないというような口ぶりだった。そのかわりレジの横の灰皿を手にとって、テーブルに戻った。
「ありがとうございます」マルボロの煙をゆっくり吐き出し後、小さく掠れた声で彼は言った。
「いや、これぐらい」私は小さく首を横に振った。そしてカップに入ったコーヒーを口にした。なぜかいつもより苦く感じた。
「なんかいろいろお世話になってしまって」
「そんなたいしたことじゃないよ。ひさしぶりだしね。今日は遊びにきたの?」
 彼は軽く頷いた。そして包装紙からハンバーガーを取り出し、小さく開けた口で噛みついた。その味を確かめるように自分の噛んだ跡をじっと見つめていたが、どこか気にくわなさそうだった。
「そうだ」彼はふと目を上げた。「寝言って聞きました?」
「寝言?」
「寝言っていうか、叫び声。バスの中で」彼はそこではじめて笑みを浮かべた。自嘲的な笑みだった。
「ああ。そういえば途中でなんか聞こえたな。誰か悪い夢でも見てるんだなって思ったけど。でも狭い場所で他人同士が寝てるから仕方ないけどね」
「あれ、俺ですよ。俺が叫んだんです」彼はさらに笑みを大きくした。「馬鹿でしょ」
「そうか、なるほど」彼の秘密を聞いてしまったようで、私も笑みを浮かべるしかなかった。「やっぱり悪い夢でも見てたんだ」
 彼はたばこの火を消して、食べることに集中し始めた。食べ始めると、彼はハンバーガーもポテトもあっというまに平らげてしまった。そしてナフキンで口元と指を拭き、アイスコーヒーをごくごく飲むと、再びたばこに火をつけた。
「しばらくは東京にいるの?」彼が食べ終えるのを見届けて私は訊ねてみた。
「しばらくは、いるつもりです」彼は私の目をじっと覗きこんで答えた。「あの、ほんと助かりました。感謝してます。ありがとうございます。姉貴にもよろしく言っといてください」
 姉貴? たばこを指に挟みながら目を伏せている彼の長い睫毛を私は見ていた。彼が何のことを言っているのかすぐにわからなかった。まだ朝食を奢ったことを言っているのかと一瞬思ったぐらいだ。だけどそうではないことは最初から居心地の悪そうな彼の態度を思い返すと理解できることだった。
「彼女はどこに住んでいるの?」訊ねるつもりではなかったことを私は訊ねていた。そんなことを訊ねてどうしようというのだ。だけど私の中の何かが訊ねていた。彼は姉にそっくりな大きな目をさらに大きく開いて、私の顔をじっと見た。彼に見つめられていると、逆に深い穴に覗きこまれているような不安を覚える。
「ここからはそんなに遠くないですよ」彼は答えた。
「そっか」私は意味なく二回頷いた。「僕はこれから面接なんだよ」
「面接」
「そう。いま転職活動中なんだ。つまり無職。わざわざ東京まで出向いて、仕事を探しにきてる」私は笑ってみた。「馬鹿でしょ」
 だが彼は笑わなかった。依然として私から目を離さない。「姉貴は何か言ってました?」
「何かって?」
「俺のこと。俺の彼女のこと。あと、昔のこととか」
 私は腕組みをして、眉間に皺を寄せてみた。「あんまり細かいことは話さないけど、心配はしているよ。この先どうするんだろうって」
 彼は最後の煙を思いきり肺の中に吸いこみ、たばこを灰皿の底に強く押しつけた。そして足元に置いてあったバッグを掴んだ。どこか苛立ち始めているようだった。
「俺は確かめにきたんです」と彼は最後に言った。「俺は俺のことを確かめにきたんです。俺の心臓はあいつの墓の中にあると思う。あいつが死んだときに一緒に持っていってしまったから。だから結局同じことかもしれない。何も変わらなくて、俺はずっとおかしなままかもしれない。だけどそれでも、自分っていうものがどんなものなのか確かめたいんです。それがどんなものか俺はまだ知らないんです。自分の魂がどんなものか知らないんです。だからここに確かめにきたんです」
 いつのまにか店の奥の女はいなくなっていた。カウンターでは店員同士がこそこそ喋り合っている。
 目を合わさないまま頭だけ下げて彼が店を出ていってしまうと、私は一人きりになってしまった。一人になったからといって、一人で何か考えることがあるわけでもなかった。やがて次の新しい客が入ってくるまで私は顔の前で指を組み、まだバスの中で眠っているかのように目を閉じていた。

 その日の面接がうまくいったのかどうか、自分でもよく感触が掴めなかった。面接官の話がうまく頭に入ってこなかったし、自分が何を話しているのかもよくわからなかった。三つの会社の面接官たちは私の話に共感して笑っていたようにも思えるし、履歴書を見つめながらずっと難しい顔をしていたようにも思える。わざわざ東京の会社を選ぶ理由は何ですかと訊かれたような気がする。ずっとこの先も編集の仕事を続けていくとすればやっぱりマスコミが集中している東京がいいと思うんです、これまではそのような答えを用意し、繰り返し答えていた。だけど繰り返しているうちに滲み出てきた嘘っぽさが舌を強張らせて、その日は歯切れの悪い答え方をしてしまったように思える。
 最後の面接が終わったのは六時すぎだった。通りに出て、ほっとした私は息を深く吸いこんだ。だが近くにあったラーメン屋の換気扇から脂の匂いが吹き出していて、思わず咳きこんでしまった。目の前を似たような服の人々が通り過ぎていった。あいかわらず食欲はなかった。
 面接がうまくいかなかった理由はもちろん私にあった。彼の言っていたことがいつまでも胸に引っかかっていたのだ。会社から会社へ移動するときはずっとそのことを考えていたし、面接の直前にできるだけ頭を切り替えようとしてもうまくいかなかった。私の知らないところで妻が彼に金を渡していたことは明らかだった。だからこそ彼は東京までやってこられたのだ。もしかしたら最初からずっと彼に金を渡していたのかもしれない。渡していたから、私の転職活動にあれこれ言わなくなったのかもしれない。
 別に悪いことじゃない。金に困った弟を助けてやっただけの話だ。住所も仕事も持っていない弟に金銭的な援助をしてやることの後ろめたさもあって、妻は私には黙っていたのかもしれない。それだけの話だろう。つべこべ言う資格は私にはない。私だって仕事がない人間なのだ。
 それでは私は何を考えていたのか。面接官の話を上の空で聞きながら何に引っぱられていたのか。まるで頭の中の半分ぐらいを他人に占領されてしまったみたいに、私はおぼつかない足取りで知らない街に紛れていった。ろくに飯を食べていないせいかもしれない。電車を何回か乗り換えて、目についた蕎麦屋に入り、山菜蕎麦を注文した。それから思いついてビールを飲むことにした。瓶ビールを頼んだつもりだったのだが、ジョッキが運ばれてきた。だがどちらでもよかった。一口飲むと、喉の奥で泡がひりひりと染み入って、もうそれ以上飲む気になれなかった。酒も飲めなくなるほど、やはり無能な人間になってしまったのかもしれない。あの吹けば飛ぶような小さな出版社でもうまくやっていけないほど、自分にはもともと何の能力もなかったのかもしれない。
 麺だけを食べて汁を残し、蕎麦屋を出た。そして夜行バスが出発する新宿駅にむかうことにした。立ち止まるのが嫌だったので、青信号の道ばかりを選んでいったものの、たやすく駅に辿り着くことができた。バスの出発時間までにはまだ四時間もある。歩き回るのに疲れたので、発券センターの地下にある待合室で待つことにした。
 五列に並ぶベンチはすべて同じ向きに設置されていて、その先にはバスの出発時間を表示した電光掲示板が備えつけられていた。ベンチに座っている乗客たちは雑誌を読んだり、携帯電話でメールをしたり、眠ったりしながら、自分が乗るバスの到着が表示されるのを待っていた。新宿からはいろんな土地へむかうバスが発車していた。青森、新潟、長野、大阪、広島、福岡。バスが駅に到着するアナウンスが流れると、何人かが立ち上がり、荷物を手にして待合室を出ていった。あの人たちは長野に行くのだと彼らの背中の目で追いながら私は思った。そんなことぐらいしかやることがなかった。
 どれくらい経っただろう。足を組み替えたり、重心を移動させたりしながら私はベンチに座り続けていた。腕を組み、ときどきうたた寝をしたり、このあいだ書店で買った文庫本の続きを読んだり、また彼のことを考えたり、次の面接のことなんかを考えていた。途中で「もう終わった?」「連絡ちょうだいね」という妻からのメールが届いたが、返事をする気にはなれなかった。もしかしたらその日に彼と会ったことがもう伝わっているかもしれない。
 一瞬、妻の不貞を疑った。本当は弟と姦通しているのかもしれないと馬鹿馬鹿しいことを思い始める。
 ひどく疲れていた。その日だけではない、ここ一ヵ月分の疲労が頭の中にぎゅうぎゅう詰めこまれたているみたいだった。次々と人が待合室を出たり入ったりしている。何時間もひたすら冷たく固いベンチに座り続けている人間は私ぐらいしかいなかった。
 ふと、彼が店を出る前に話していた姿を思い出す。
 あのとき彼は何を確かめにきたと言っていただろう。彼は何かを確かめにきたと言っていた。強い口調だった。私の顔をまっすぐ見つめ、それでもどこか震えているような目だった。これまで私が頭の中で描いていた、まるで気が狂いそうな彼とは違っていた。
 私はこれから何を確かめようというのだろう。確かめるためにどこへ行けばいいのか。そもそも確かめるものなどあるのだろうか。
 足の先に何かがあたる。誰かの荷物を蹴ったかもしれないとすぐに足を引っこめる。しかしまわりには誰もいない。最終のバスの発車時刻が近づいている。私は上半身を妙な角度に折り曲げて、前の席の下を覗いてみた。誰かが落としていったものだ。かなり古い型で、細かい傷がいくつもついている。私は小動物の死骸のように転がっていた携帯電話を拾い上げて、手の中でしばらく眺めてみた。
 落とした人間が探しに戻ってくるかもしれない。私がやることはその落とし物を事務所の職員に届けて、あと十五分でやってくるバスを外の発着場で待つことだった。とにかくそれで今日という一日の終わりを迎えることができる。私は鞄を手にし、立ち上がって、ベンチの列から出た。まだアナウンスは流れていないが、乗車の前にたばこを一本吸っておきたかった。
 だけど待合室の扉に手をかけようとしたとき、手の中が震えた。一瞬、彼の目の震えが思い浮かんで、着信も確かめずに反射的に通話ボタンを押してしまった。
 相手は彼だった。

(⑧へ続く)

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