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夜行バス⑧

 鍵は最初から開いていた。
 部屋の中はいつもどおりごみ一つなく掃除されていて、彼女以外の誰かがそこにいた様子はない。まるで最初から誰もいなかったみたいにしんと静まりかえっている。ミニチュアダックスの鳴き声も聞こえてこない。
 眠ってしまったのかと彼は玄関のドアノブを回しながら思う。もうすぐ学校の試験があるのに、アルバイトも忙しくなってきたのだとメールに書いていた。靴を脱ぎ、部屋に通じるドアを開ける。
 ソファの上で、やはり彼女が洋服を着たまま横たわっている。彼は立ち止まったまま、じっと彼女を見下ろす。仰向けで、両腕は左右に開かれ、脚はそれぞれ別々の角度に曲がっている。
 部屋の中はひんやりと冷たかった。彼は彼女のそばまでゆっくり近づき、彼女への視線を固定したままフローリングの床に腰を下ろした。そして何もせずにしばらく彼女の横顔を見つめ続けた。繋げられていた糸を突然ぷつんと断ち切られてしまったような横顔だ。
 いくら彼が見つめ続けても、彼女は目覚めようとしない。なぜなら眠っているわけではないからだ。眠っているには手足の向きが不自然だったし、静かすぎた。彼が耳を近づけても寝息さえ聞こえてこない。
 やがて彼女が死んでいることがわかっても、彼はその場を動こうとしなかった。どこにも外傷は見あたらない。首のまわりにも痣らしきものは残っていない。その横顔を見ていると、子供のころ彼がよくやっていた死んだふりをしているだけのようにも思えてくる。だが呼吸は完全に失われている。彼はじっと彼女の顔を見つめたまま、何かの拍子で彼女が目覚める可能性が訪れるのを待っているしかなかった。なぜなら彼の行き場所は彼女の部屋以外にどこにもなかったからだ。
 どれだけ時間が過ぎたかわからない。時間の経過をあらわすものが何もないその部屋で、彼は彼女と共に過ごし続けた。ときどき虚ろな目つきで彼女の指に触れ、彼女の頬を撫で、彼女の髪に指を滑りこませて梳いてやった。テーブルに広げっぱなしになっていたノートをめくってみたりもした。だが彼女はいつまでも経っても冷たく、固く、死に続けていた。俺も小さいとき、こんなふうに長いあいだ死に続けていた。そしてまるで本当に死んでしまったような気になったものだ。あのとき瞼の裏側の、闇の奥に彼女は吸いこまれてしまったのだろうか。
 ふと、それまで自分の憶えてきたものがすべて嘘のような気がしてきた。結局すべて嘘なのかもしれない、彼はそう感じ始める。生まれてきてから今まで、あの街が自分にぺたぺたとあらゆる種類の嘘を貼りつけてきたのだ。俺はそれを確かめにきたのだ。でも本当にそうなのだろうか。死んだ彼女を目の前にして、わざわざ俺はそんなことを確かめにきたのか。自分でもわからない。自分の考えていることがよくわからない。自分が生きているということがよくわからない。
 部屋の隅にぽつりとある黒く小さな充電器。それに差しこまれている携帯電話を目にして、彼は彼女からのメールを思い出した。部屋の前の廊下を何度も行ったりきたりする大きな男の人影。俺の夢にまで出てきやがった奴だ。そいつなのか。そいつが彼女を殺したのか。俺じゃない。俺が死なせてしまったのは一人めの彼女だけだ。でもわからない。わからないぞ。俺は気が狂い始めてるんだ。知ってるものはぜんぶ嘘なんだ。
 彼は犬のように床を這いずり、携帯電話を手にした。そしてどこかでなくしてしまった自分の携帯電話の番号を押した。もしそこに誰かがいるなら、きっとその誰かが彼女を殺したのだ。
 コール音が鳴る。彼は床に寝そべり、再びソファに横たわる彼女に目をむけて、通話状態に切り替わるのを待つ。
「はい」しばらく間があって私が言う。
「……はい」彼は私の声に耳を澄ます。
「もしもし」
「もしもし」
「あの、拾ったんです。この電話」
「そこはどこ」
「え」
「そこはどこで、あんたは誰」
 質問に対しての私の沈黙に彼は耳を澄ます。相手が何かを隠しているようだと彼は思う。
「ここは夜行バスの待合室です」私は答える。「ベンチの下にこの電話が転がっていたんです」
「あんた、彼女の部屋を覗いてたか」
「彼女の部屋?」
「彼女を殺して、夜行バスで逃げるつもりなのか」
「ちょっと待って」
「あんたは闇化された人間だろう」
「ねえ」聞き覚えのある声に私は思い切って訊ねる。「もしかして君、……くんか?」
「俺はそんなんじゃない。俺は闇化なんかされていないぞ」
「これは君の電話なのか? 殺してってどういうことだろう。何かあったのか?」
「俺はもう逃げないぞ。あんたが逃げたとしても、俺はどこまでも追いかけていくからな」
「何を言ってるんだ。僕は逃げないよ。ここにいる」
「どこまでも追いかけるぞ。あんたは決して、決して逃げられない」
 そこで電話が切れた。
 バスの発車時刻が近づいている。私は着信履歴から再びさっきの番号にかけてみた。だがいくら待ってもコール音は闇に吸いこまれていくばかりだった。
 確かに彼の声だった。彼の声が警告のような言葉を発していた。だけど私にむかって話しているような感じではなかった。むしろ彼自身にむかって話しているような口調だった。
 私は階段を上がり、外に出て、バスの到着を待つ人の列に加わった。やがてカーブに合わせて巨体を器用に曲げながらバスがやってきた。前に並ぶ人たちが次々と手続きを済ませて、車内に乗りこんでいく。
 何かが胸に引っかかっていた。このままバスに乗って戻っていってもいいのだろうか。このままこの夜、東京を去ってしまってもいいのだろうか。私は自分の何かを確かめなくていいのだろうか。
 座席表を手にした係員がチケットを見せるよう私に指示する。私はポケットからチケットを取り出し、係員に見せる。数字を覗きこむ係員。その顔を目にし、しばらくしてから私は思い出す。あの古い一軒家を見に行ったときの不動産屋の若い男がそこにいた。だらしなくスーツを着ていた男が、今度は濃紺の制服と帽子を身につけて、私のバスチケットを確認していた。それではお乗りくださいと男はバスの入り口に手を差し伸べ、微笑みを浮かべている。
 男に自動的に導かれるように、私の両足はバスの中へと進んでいた。

(⑨最終回へ続く)

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