見出し画像

夜行バス③

 二時間ごとに十五分の休憩。
 でもその夜は機内食の運搬カートがいつもより多く運びこまれてきたせいで、彼が事務所に入ったとき時計の針は深夜四時を三分ばかり過ぎていた。その日の最後の休憩だった。残りは十二分しかない。
 入口に近い、安物のソファのいちばん端に彼は深々と腰を下ろした。そして白い作業服の衿から手を入れて、なかのシャツの胸ポケットからもぞもぞと携帯電話を取り出す。こちらは四時五分を示している。
 それまで多くの人間が座りすぎたせいで、ソファの表面には日焼けした老婆のような皴が何十本も複雑に刻まれていた。たばこのヤニで変色した壁には、以前の連絡事項が書かれた紙が何ヵ月も貼りつけられたままだ。公衆トイレほどの広さしかなく、公衆トイレみたいな臭いが漂う事務所。そこに彼と同じ作業服を着た中年の男たちが肩を寄せ合って、ニュースの話やプロ野球の話や卑猥な話なんかで笑い合っていた。
 そのなかで彼がいちばん若かった。中年の男たちはすみっこの彼に何も話しかけようとしない。まだ肌がすべすべしている彼の若さに、髭面の男たちははじめから話しかけるつもりがなかった。ただ、彼は彼で誰のことも相手にしていなかった。股のあいだから飛び出している黄色い綿を少しずつちぎっては床に捨てながら、携帯電話を操作しているだけだった。
 彼女から新しいメールは届いていない。バイトが終わったらメールすると書いていたのを彼はもう一度確かめた。彼女のバイトの内容は、彼にはよくわからないものだった。校正プロダクションというものがあって、そこでは出版社から発注を受けてゲラ刷りに赤を入れるという。彼女はそのプロダクションに属しているのだが、作業自体は自宅でできるものだという。よくわからない原稿か何かにむかって彼女はいったいどんなことを書きこんでいるのか彼は想像していた。
 たぶんいまごろ彼女は眠っているはずだ。だけど眠っていないかもしれない。どこかで何かをしている最中なのかもしれない。彼がいくら携帯電話をいじっても新しいメールは届かない。
 届かないまま、あっというまに休憩終了のチャイムが鳴り響く。
 持ち場にたどり着くまでのあいだに、彼は気持ちの中で何重にも交差していた光や影を消し去ろうとする。そしてややこしいことなど何も考えていなかったかのようにベルトコンベアの前で無表情に立つ。目の前にはただ一定方向への無機的な流れしかない。そこで彼がすることは、飛行機を降りたばかりの乗客たちが使用したプラスチックの食器の食べ残しを、次々と手で掬いとっていくことだった。
 まったく手のつけられていないハンバーグ、ブロッコリー、ポテトフライ。半分だけ食べられて茶色い汁が染みこんだ白米。どろどろに溶けたかぼちゃのアイスクリーム。複雑に絡み合ったパスタ……。
 彼はビニール製の手袋をはめた手でベルトコンベアから食器を拾い上げ、食べ残しを底から掴みとり、足元の大きなごみ箱に投げ捨てる。そして空っぽの食器を再びベルトコンベアに戻す。その作業を深夜から明け方にかけて延々と繰り返していく。延々と繰り返していると、作業の手触りはだんだん動物の臓物を廃棄しているような感触に変化してくる。
「まだ残ってるぞ」
 巨大な洗浄器を通した後の食器をコンテナにつめていく係の男が彼のもとにやってくる。「こういうのもしっかりこそぎとらないとな。こういうのは機械じゃ無理だからな。しっかりやってくれよ。しっかりやらないと自分がこそぎとられるぞ」
 男が手にしていたのはグラタン用の皿で、固まったチーズが縁にこびりついていた。彼はしばらくチーズを見ていた。そのことがいったい何を意味しているのか、一瞬わからなかった。彼と同じ作業の者は他にもいるのに、なぜ自分のところに持ってきたのか。まわりの中年の作業員たちは顔も上げずに、黙々と作業を繰り返している。
 彼は何も答えずに、男から皿を受けとった。男はさらに文句を言いたそうにしていたが、結局舌打ちだけして立ち去った。男がいなくなると、彼は手袋をはずして、爪の先でチーズを削りとろうとしてみた。ある程度は落ちたものの、やはりすべてこそぎ落とすのは難しく、やがて彼の爪の方が少し欠けてしまった。
 なんだか馬鹿馬鹿しくなって、彼はグラタン皿をごみ箱にそっと捨てた。そして何もなかったように元の作業に戻った。誰も彼のことなんかに注意を払っていなかった。
 泥だらけになりたい。地面に這いつくばって生きたい。
 彼はそう思っていた。帰宅する明け方の電車の中で一人目の彼女のことを思い出すとき、それが自分にとっていちばんふさわしい生き方のように思えてくる。
 まだ冬の朝の光よりも蛍光灯の方が強い時間帯の車内には、スポーツバッグを持って部活の朝練にむかう女子高生や、腕組みをして眠っているスーツ姿の男なんかの数人が乗っているだけだ。彼は最後尾の車両の、いちばんの後ろの席に座ることにしている。そしてコートのポケットに手を突っこみ、頭をステンレスの手すりにもたれさせ、夜明けの街をぼんやりと眺める。
 そんなふうにしていると、一人目の彼女はまだこの街のどこかで暮らしているような気がしてくる。昔みたいに彼のためにお菓子をつくったり、二人で楽しめるような店を雑誌で探したり、鏡の前で洋服を何度も着直したりしているかもしれない。彼は疲労した体を昔の夢の中にそっと沈めこませようとする。
 電車が街の中心に進むにつれて、乗客が次々と押し寄せてくる。すぐに座席は埋まり、彼の見ていた窓の景色は人影の黒い波に閉ざされる。人影たちは吊り革にぶら下がりながら、小さく折り畳んだ新聞を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聞いたり、煙草くさい息を吐いたり、ただ目を閉じたりしている。やがて影たちのあいだに生温かく湿った空気が淀みはじめる。
 彼はあらためて気づかされる。やっぱり自分があの彼女を殺したのだと。自分があの彼女を殺し、あの彼女は自分によって殺されたのだと。
 思い出し、押し流されながら、駅のホームに降りて、さらに階段の流れを逆行していく。
 彼の冷たい部屋では、いろんな郵便物が床の上に散らばったままになっていた。電気も点けずに、彼はポストに入っていた家賃の督促状を放り捨てる。そしてヒーターの電源を入れ、毛布を引き寄せて、床にへばりつくように横たわる。
 やっと三人目の彼女からのメールが届いたのは、彼が瞼を閉じて一分ほど経ったときだった。

  メールできなくてごめんね。
  もらってきた原稿にむかったまま
  いつのまにか寝ちゃってたの。
  なんか最近ちょっと疲れてるみたい。
  時間が自分のものじゃないみたいなの。
  でもそれもきっと誰のせいでもないのよね。
  あなたがいつも言っているように。
  それじゃあ学校行ってくるね。

 いったい自分がどこにいるのか、彼は一瞬わからなくなった。時間を確かめようとして部屋を見回すが、そこには時計なんてないことを思い出し、再び携帯電話の液晶画面に目をやる。
 誰もが出かけようとしている朝の七時二十三分。はるか遠くで暮らしている彼女の温もりを求めるように彼は今度こそ眠りについた。

(④へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?