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夜行バス④

 朝からコンピューターにむかって求人情報を検索していると、妻が溜め息をついて部屋に入ってきた。いつもより大きな足音だったので、私は机の前に座ったまま振り向いて、妻が入ってくるのを待ち構えた。
「何、どうしたの」部屋に入った途端、私と目が合った妻は言った。
「いや、別に。何かあったのかなって思って」
 妻は携帯電話を手にしていた。山陰へ旅行したときに買ったアクリル製の折り鶴のストラップがぶら下がっている。妻は頭の中で何かを懸命にまとめているみたいで、ゆっくりとフローリングの床に座りこんだ。
「お母さんのところに電話があったんだって」妻は吐き捨てるように言った。「あの人が借りてるマンションの管理人から。家賃が何ヵ月も滞納されているから払ってくれないかだって。本人とは全然連絡がとれないし、ついに保証人になってるお母さんのところに電話してきたのね。それでもしこのまま入金がなかったら、強制的に部屋の荷物を廃棄して、鍵も変えるって言ってきたらしいわ」
 私は椅子を回転させて、妻の方に体を向けた。仕事を辞めてからできるだけ喫煙を控えていた。だが手はいつのまにか引き出しの中のキャスターに伸びていた。
「連絡がとれないって、マンションには帰ってないっていうこと?」私は手を止めて訊ねた。
「そりゃそうでしょう」妻は苛立ちを隠さずに答えた。「管理人は何度も部屋に入ってるはずだからね。きっとどこかうろついているのよ」
「たとえば東京とか」
「さあ、わからない。バイトはしてたみたいなんだけど。でもそんなに稼げるはずはないから」
 やはり私はこっそりキャスターを一本抜き取って、火をつけた。ライターの音に妻は下を向いたまま何の反応も示さなかった。それも苛立ちのあらわれかもしれなかった。
「どうするんだろう」私はごまかすように言った。「お義母さんは払うつもりなの?」
 妻は首を横に振った。「払ってやった方がいいのかなとかなんとか言ってたけど、私は止めたの。そんなの払う必要ないって。そんなの何の意味もないじゃない。いつまでもそんな関係のままじゃ、あの人もろくな人間にならないって言ったの。でもそう言うと、じゃあ荷物はどうするのって言うの。あの人、昔の漫画とかCDとかフィギュアとかたくさん集めてて、すごく大事にしてるのよね。そんなものがあの人の知らないうちに捨てられちゃうっていうのが可哀そうだっていうのよ」
 私は煙を肺の奥底まで吸いこみ、ゆっくり吐き出した。少し頭がふらついた。妻の話していることが一瞬不明瞭になってしまった。
「でも彼本人はもう放棄してるってことなんじゃないかな。帰ってこないっていうことは」
「放棄」妻は初めて耳にした言葉のように繰り返した。「さあ、もう放棄してるのかしら」
「こっちからも連絡はとれないの?」私は訊ねた。
「一回電話して、一回メールした。でも何も返ってこない」
「そっか。とりあえず家賃は立て替えない方がいいとは思うけどね。いずれむこうから連絡がくるような気がするな」
 妻は立ち上がり、部屋を出ていった。しばらくして洗濯機の回る音が聞こえてきた。だが窓の外は洗濯日和とはとてもよべないほど雲に覆われていた。私は指でこめかみを軽くマッサージした後、モニターにむかって数社の企業に履歴書を送るときの挨拶文をぱちぱちと打ち始めた。
 効率性を求めて、つまり交通費を節約するために、できるだけ同じ日に面接の予定を複数入れるようにしていた。最低一日二社、多いときは四社の面接を予定に入れていた。部屋に通されていきなりこちらの経歴に文句をつけられることもあれば、なぜかアポイントがとれていないということで門前払いを受けたこともあった。一次面接ですぐに落とされることもあれば、あっというまに最終面接まで進んだこともあった。だが私はまだ一度も採用の連絡を受けられないでいた。そんなはずではなかった。もっと簡単に決まるはずだった。結局自分は役に立たない不能な人間にすぎないかもしれないと胸をよぎることもあった。
 いくら新幹線と比べて割安といっても、週に三、四回夜行バスで往復を繰り返していれば、さすがに経済的な不安は抑えきれなくなってきた。できるだけ外出せず、食費や光熱費をいくら削ろうとしても、収入がゼロなのだからいずれ終わりが見えてくる。だからといって転職活動をやめるわけにもいかなかった。それしかやることがないのだ。
 仕事が決まらないことについて、妻は大きな心配はしていなさそうだった。出版社を辞めた直後は私の選ぶ会社について詳しく質問したり文句をつけたりしていたのだが、何回か東京に通うになってからはふと興味をなくしてまったみたいだった。あるいは彼女の弟の問題があらわれてきたからかもしれない。毎朝七時に目を覚まし、洗濯をし、朝食をつくり、掃除をはじめる。そして昼食をつくり、買い物に出かけ、早めの夕食をつくりはじめる。そんな何もすることがない生活を妻は楽しみ始めたかのようだった。
「焦ったって仕方ないじゃない。この際だから慎重に探してみたら」
 こたつ布団を押入にしまった後のすっきりした顔で妻は言った。彼女にしてみても派遣会社ですぐにできる短期の仕事を探せるはずなのに、そうしようとしない。もうすぐ東京に引っ越すならそんなの面倒くさいじゃないと妻は言った。東京で暮らすことについては私も妻も抵抗がなかった。結局どこの街も同じだろうと私は思っていたし、妻は妻でなるべく遠くに住みたいと言っていた。どこから遠くか、については口にしなかった。
 その夜の十一時、私は部屋着からスーツに着替え、資料をつめこんだ鞄を手にして面接にむかう準備をした。玄関先で妻は見送ってくれた。いつも繰り返している場面。むこうに着いたら連絡してねと彼女は言う。私はドアを閉め、階段を下りていく。
 深夜、皴ひとつないスーツを身にまとい、疲労の翳りがまったくないまま誰もいない暗い歩道を歩いていく。それだって何回も繰り返している場面なのに、一人で夜の駅へむかうときだけはいつも妙な罪悪感につきまとわれた。どこへ行くというのだろう。どこの街も同じはずなのに、私はどこへ行くというのだろう。とりあえずの場所はわかっている。あの巨大な棺桶のような夜行バスの中だ。そこで眠ったふりをする。眠ったふりをしていると、やがて見慣れた朝の忙しい風景に参加することができる。参加しているふりをすることができる。

(⑤へ続く)

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