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夜行バス⑤

 駅の改札口から次々と溢れ出てくる人々。前後左右に通り過ぎていく雑踏を、彼はポケットに手を突っこみ背中を丸めて眺めていた。地下のショッピングフロアに続く階段の手すりにもたれていると、まるで誰かと待ち合わせをしているような錯覚にとらわれる。もしかしたら誰かが自分の前にあらわれるような気がしてくる。
 だけどやっぱり誰にも会いたくないと彼は思った。だって自分なんかに会いたい人間なんてこの街にいないはずなのだ。
 ひさしぶりに二人目の彼女に会ったときだってそうだった。機内食の食器洗いのアルバイトを辞め、マンションに帰らなくなってしばらく経った頃、彼は彼女に連絡して会うことになった。五年ぶりだった。
「いま何してるの?」
 彼女は何度も繰り返し訊ねてきた。
 厚めの化粧で、昔よりも声量が大きくなっていることに彼は少し驚いた。ストレートに伸ばした髪は明るい茶色に染めて、短いスカートを穿き、両手の指には指輪が合わせて三つはめられていた。その指でロイヤルミルクティーのカップを持ち上げ、わざとらしく口先をすぼめて飲んだ。
 笑い合って話せる思い出話など互いになかった。昔の話などしたくないし、今の話をしても仕方がない。ましてや先の話など。彼女はときどき何かをこっそり思い出すように一人でくすくす笑っていた。話すことなんて何もないはずなのに、なぜ彼女は自分と会う気になったんだろうと彼は思った。だけどそんなことは彼にとって結局どうでもいいことだった。
「これから働こうと思ってるんだけどさ。それには金がいるんだよ」
 彼は本題を切り出した。彼女は何も聞こえなかったようにくすくす笑ったままだ。だがソファに沈みこませた頭の奥で光っている目は彼をしっかり捕らえている。
「いまは何してるのよ」彼女は微笑みを浮かべたままやはり訊ねた。
「何もしてないよ。君は?」
「わたし? なんで?」
「なんでって」
「わたしだって何もしてないのと同じようなものよ」
「でも前とはずいぶん変わったように見えるけど」
 彼女は大きな声を出して笑った。「そうね。でも変わったからって、何かしてるわけでもないのよ。人間なんて何もしなくても勝手に変わっていくものだしね」
 彼は彼女から金を借りることを諦めた。おそらく自分の目的を彼女はすでに見抜いていて、それを冷やかしにきたのだ。
「でも働くのにお金っている? ふつう」彼女は言った。
「静岡の田舎にある自動車工場で、住みこみで働こうと思ってね。そこへ引っ越したりするのに必要なんだ」
「へえ」
「でもやっぱりいいよ。自分でなんとかしてみるから」
 彼が店から出ようと立ち上がろうとしたとき、彼女は彼を押しとどめた。そしてバッグから財布を取り出し、一万円札を五枚渡した。
「それで足りるかしら」
「ありがとう。こんど返すよ」彼は言った。
「きっと」彼女は神妙な声で言った。「あなたはこれから何かをやろうとしても、きっと何一つ成し遂げられないわよ。あなたはそういう男なのよ」
 彼は何も答えなかった。ただ金をポケットにねじりこみ、店を出た。
 それから半月ほど経って、再び彼は彼女にメールを送った。前は悪いことをした、もう一度会ってくれないかというような内容だ。夜行バスで東京との往復を四回も繰り返せば、五万円などすぐに消えてしまうのだった。
 もちろん彼女からは何の返事もなかった。返事がなくて当然だろうと彼も思った。だけど彼は彼女がよく使っていた駅で、彼女があらわれるのを待つことにした。彼女があらわれる可能性はほとんどない。引っ越しをしているかもしれない。もし改札から出てきたとしても、気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。
 俺はいったい何をしているのか、待ち合わせ場所によく使われる巨大モニターを見上げながら彼は奥歯をかちかち鳴らしていた。
 結局その夜も誰も彼に話しかけてこなかったし、彼も誰にも話しかけなかった。東京から彼にメールを送った三人目の彼女だけが、その日彼がその街で生きていたことを知っていた。

  いま玄関先で物音がしたの。
  なんだろうって思って、廊下側の部屋をこっそり覗いてみたら
  窓越しに人影が何度も行ったりきたりしてるの。
  たぶん、大きな男の人のような影。
  なんだかわからなくて、ちょっと怖くなって
  とにかくじっと息をひそめてたら
  結局どっかに行っちゃったんだけど。
  なんだかわたしの部屋を観察してるみたいだった。
  部屋を覗いていたような気もする。
  マンションの掲示板に不審者注意の貼り紙があったの。
  あなたがこの部屋にいてくれるときは
  そんなの全然怖くないんだけどね。
  先週は二回も会いにきてくれてありがとう。
  でも無理しなくて大丈夫だよ。
  いまの仕事うまくいってるんでしょ。
  私の方から会いにいくことだってできるんだから。

 一畳半ばかりのネットカフェの一室。
 そのリクライニングシートに身を横たえながら、彼はその夜に届いたメールを何度も読み返していた。すぐに電話をかけたかったが、次回のバス代を計算すると、はるか遠い東京への通話ボタンを押すのはためらわれた。
 狭いテーブルの上はモニターとキーボードとマウスがほとんど支配していて、空いた隙間に飲みかけの烏龍茶と冷めたカルボナーラの置き場所がなんとか与えられていた。カルボナーラは二口食べられただけで、フォークとナイフが突き刺さったままだ。床にはマンションの部屋にあった物を手当たり次第つめこんだナイロン製の旅行バッグが重々しく腰を下ろしていた。眠るときの足置きにちょうど適した大きさだった。
 結局試着室ぐらいのスペースがあれば人間は生きていけるのだと彼は思う。でもここを出るときはこのバッグをこの部屋に置いていった方がいい。これはあまりにも重すぎる。ここまで持ち運ぶのに何度も指がちぎれそうになった。
 ネットカフェで暮らし始めてから一週間。彼は財布の中の金を数えてみた。ATMで引き出した貯金はほとんど残っていない。そろそろ働きだす時期だった。とりあえず日雇いの仕事を見つけなければいけない。見つけないと、公園のベンチか駅の構内でホームレスと枕を並べることになる。
「おまえって確か、前の仕事も一ヵ月で辞めたんだよなぁ」
 彼は機内食の食器洗いのアルバイトを辞めたときのことを思い出す。事務所の中は彼と係長の二人だけだった。
「辞めたい理由は言いたくないんだな。別にいいよ、言わなくたって。大体はわかるから。どうせ前の仕事も同じように辞めたんだろう。おまえみたいな奴がいちばん迷惑なんだよな。一ヵ月そこそこで消えていく奴。でもこっちはいくらでも代わりはいるからいいけどさ、いちばん大変なのはおまえだよ。わかってる? どうすんの、この先? なあ、ほんとにわかってんのか?」
 男の顔を思い出していると喉の奥がひりひり乾いてくる。働く気は当分起きそうにない。やはりすぐにでも夜行バスに飛び乗りたかった。
 しばらく考えて、彼はメールを送ることにする。思い浮かんだことをそのまま言葉にしてみる。三十分ぐらいだろうか。その長い文章を親指で打っているうちに、彼の目からはいつのまにか涙が溢れ出ていた。ひとつ流れ出すと、次々と流れ落ちてきた。泣くなんて何年ぶりだろうか。自分はひょっとしてずっと泣きたかったのかもしれないと彼は思った。だけどさすがに涙を流していることまではメールに打たなかった。
 彼はメールを送ろうとしている相手は自分の姉だった。

 ここ何日か考えたことなんだけどさ、俺はやっぱりこの街を出ていこうと思うよ。行くあてはある。そう、前に話した女の子のところ。とりあえず一緒に暮らすつもりなんだけど、でもどうなるかはわからない。そんなの誰もわからないんだよ。ただはっきりしているのは俺が行きたいところはここじゃなくて、彼女が住んでいる街だよ。ほんとはもっと早くに気づくべきだったし、もっと早く決めるべきだったんだろうね。
 最近、あの頃のことをよく思い出すよ。三人で暮らしていた頃。やっとおふくろが親父と別れて、俺たち三人それぞれ働きながら静かに暮らしてた時期があったろ。俺はガキの頃からあの親父が大嫌いだった。ろくに家に帰らずに、それなのに偉そうに命令する。借金と不倫が明るみに出たとき、実は思いっきりぶん殴ってやったことがあるんだ。俺たちじゃなくておまえがこの家から出ていけよ! って叫んでやった。それでも結局出ていったのは俺たちだけどね。だけどあの後からの生活がいくら貧しかったとしても、あの親父のいない生活は少なくとも俺にとっては満足なものだったんだ。あいつもいたな。よく家に泊まりにきてた。ちょうどあの頃にあいつと俺は付き合いはじめたんだ。ときどきあいつが焼いたクッキーなんかを持ってきたりしてさ。あのままの生活が続いていればきっとうまくいってた。何もかもうまくいってたんだ。
 でも、そんな生活はもうこの世のどこにもない。きっと何もかも腐り始めてる。あの女は殴ってやったよ。結局すぐに別れることになった女さ。全然連絡がつかなくて、街をふらついてたら偶然見つけたんだ。ガラス張りの気取ったカフェで男と二人でいやがった。二人とも玩具みたいな小さなテーブルの上で顔を寄せ合って、なんかにやついてやがった。俺は店に入って、女の髪の毛を引っつかんだまま、路上に投げ飛ばしてやったよ。それで何度も殴りつけてやった。他の奴らが引き止めるまで、俺は何度も殴ってたんだ。あいつら俺のことを笑い合っていたんだよ。
 いや、こんなことはどうでもいいんだ。最近さ、全然関係のないことをふっと思いだしちまうんだ。ちょっとおかしくなってるかもしれないけど、仕方ない。そんなことより、あなたにお願いがあるんだ。
 金のこと。
 もし聞いてくれれば俺はもう二度とこの街に戻ってこないし、あなたに二度と連絡したりしない。あなただって金は人を平等にすると思うだろ。ほんの少しでいいんだ。なあ、俺は闇化されたくないだけなんだ。闇なんかになりたくないだけなんだ。もちろんいつか死ぬのは承知している。でも、ただ夕方の満員電車の中なんかで死んだり、この試着室みたいな狭い部屋で死んでいったりしたくないだけなんだよ。俺だってみんなと同じ血と粘液にまみれて産まれてきた人間さ。たとえどこまでも腐りきったとしてもさ。なあ、頼むよ。これが最後だから。

(⑥へ続く)

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