夜行バス②
いくら時間が過ぎ、いくらバスが東京に近づきつつあっても、眠りはいっこうに訪れてくれなかった。だからといってカーテンのすきまから射しこむ光が眩しかったわけではない。高速道路の繋ぎ目を走るときの衝撃はそれほど気にならなかった。となりの乗客がかちかちと携帯電話をいじっている音も特に煩わしくはなかった。それでも私は毛布を顎の下まで引き寄せ、窓に体を向けて、瞼を開けたり閉じたりしながら、何時間もゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
夜行バスに乗る前からきっと眠れないだろうと予想はしていた。さすがにそんなところで眠れるほど自分の神経も図太くはないだろうと思っていた。それでも狭いシートの上でろくに身動きもできないまま、夜通し起きているのも気が滅入りそうだった。バスに乗りこむと、すでに満員近く乗車している客たちのあいだを通り抜けて、チケットの番号のとおりにいちばん後ろの座席についた。そして荷物を頭上の棚に上げると、すぐにリクライニングシートを倒した。しばらくは夜景でもぼんやり見ていようと思っていたのだ。しかしカーテンに触れようとした瞬間、ちょうど車内アナウンスが流れた。
「……他のお客様のご迷惑になりますので、携帯電話での通話やカーテンを開けたりするのはご遠慮ください……」
そういえば乗車したときから車内のカーテンはすべて閉じられていた。夜景を眺めながら眠れぬ夜を過ごすという安っぽいロマンチシズムは、夜行バスのマニュアルから排除されているようだった。深夜の高速道路を走り続ける巨大な箱の中では、ただ眠ることしか用意されていなかった。
一晩じゅう目が冴えていたわけではない。シートの上で腕組みをしながら、一時間ぐらいじっと横たわっていると、ふと温かくぼんやりとした霧のようなものに頭のまわりを包まれるような気がした。車内の暖房が効いていたかもしれない。ときどき乾燥した微風が鼻先に触れた。ひょっとするとそのまま眠れるのかもしれなかった。だがいつのまにか私は目の前に垂れ下がるカーテンのペイズリー柄を見つめていた。身をよじり、体勢を変えて、再び目を閉じる。するとしばらくして温かい霧がやはり訪れるのだが、いつのまにか私の体はそれをすり抜けていて、乗車する前に買ったペットボトルの蓋を開けようとしていた。
上半身を起こしてみた。そんな状況で熟睡できる人間などいるのだろうか。他の乗客たちはシェルターの中で避難しているかのようにみな毛布を被って、じっと横たわっている。三列に整然と並べられたシートの上で身動き一つもしない。本当に眠っているのか、それとも眠ったふりをしているだけなのか。時刻は二時を過ぎていた。まわりと同じように私も毛布を引き寄せて再び横たわる。しゃかりきになって動いているのは、我々の足元で複雑な音をいつまでも唸らせ続けているディーゼルエンジンだけだった。
暗闇の中で目を開けたり閉じたりしながら、次第に考えることも底をついてきたとき、ふと妻の弟のことに思いあたった。付き合っている彼女が東京住んでいて、彼は夜行バスに乗って会いに行っているということだった。妻と弟は五歳離れているが、子供のときはよく一緒に遊んでいて、今でもたまに電話やメールのやりとりをしているらしい。弟について妻は普段あまり話さないのだが、ついこのあいだ妙に真剣な表情で話しだしたのを私は思い出した。
その日、私たちは売りに出ている中古の一軒家をのぞきにいった。新聞の折り込みチラシを妻が目にして、うちから近くだし、ちょっと見にいってみないと言い出したのだ。もちろん家を買う経済的な余裕などなかったし、私も妻もマイホームを持つということにまるで興味がなかった。たぶん気分転換でもしたいのだろうと私は思った。陶芸雑誌の出版社を辞めてから二週間。まだ私の次の仕事が決まらないことに対して募りつつある妻の苛立ちを私はそばで感じていた。
遅めの朝食をとった後、私たちはチラシの地図を見ながら十分ぐらい歩いて、古い一軒家にたどり着いた。チラシに築四十年と書いてあったとおり、瓦屋根の二階建てで、土壁はところどころ剥がれ落ち、庭を囲む鉄柵やガレージの支柱は赤茶色に錆びていた。破格の安値というキャッチコピーも納得できるものだった。
家の中に不動産会社の若い男が座っていた。どうぞご自由に見回ってください、なかは意外と綺麗にしてありますからと明るい声で言った。髪は乱れ、赤いネクタイは緩んでいて、手にはファイルのようなものを持っていた。男は私たちの後についてこようとせず、テーブルの上で他の仕事を続けていた。そんな安く古い家が売れようが売れまいが男にとってはまるでどうでもいいことみたいだった。
私たちは一階を見回した後、二階に上がった。二階には二部屋あって、洋室の方は物置ぐらいの広さしかなかった。私たちは八畳ほどの和室に入り、とりあえず窓を開けて景色を眺めた。そのあたりは昔からの住宅地で、一昔前のタイプの家の屋根が密集していた。祝い事のようにあちこちで色とりどりの洗濯物が干され、その上を雲ひとつない三月の空が広がっている。
妻は天井やら押入やらを観察し始めたが、別にはじめから興味はなかったらしく、再び窓際に戻ってきた。「ゆうべ、久しぶりに弟から電話があったの」と柱に手をやりながら妻は言った。
「へえ」私は真向かいに建つ家の中の人影を見ながら答えた。人影はこちらに背を向けながらテレビを見ていた。「知らなかったな。いつのまに」
「ゆうべよ。あなたが寝てから」
「全然気づかなかった」
「すごくよく寝てたからね、あなた」
「何かあったの」
「ううん、別に。いつもと変わらないみたいだった」
「いつもって?」
私は妻の顔を見た。妻はまだ窓の外を見ている。黴臭い匂いが部屋の奥から外へ流れていった。
「なんかいま、付き合っている子がいるんだって」妻の声が少し小さくなる。「ネットで知り合った女の子。その子が東京に住んでるから、こないだ夜行バスに乗って会いに行ったみたいなの」
「へえ。わざわざすごいね。出会い系サイトか」
「この家、なかなかいいね。わたし好きだわ」妻は柱を背にして、部屋全体をぐるりと見回した。妻はなにかにつけて昔のものが好きだった。結婚するときも食器棚や机なんかは骨董市やリサイクルショップで揃えた。どうせ家を買うなら、茅葺き屋根の古い日本家屋みたいなのに住みたいと言っていたこともあった。
「たしかに値段は安いけど、すぐに修繕費とかが必要になるよ」
「あの人、これからどうするつもりなんだろう。大学も結局中退して、定職にも就かないで。そんなことしてる場合じゃないのに」
「いま二十五だっけ。まだ若いよ」
妻を安心させるつもりでなんとなく私は言ってみた。だが妻は何も答えなかった。自分の弟なのに妻は「あの人」と言う。なぜそんなふうに呼ぶのか訊いたことはない。子供の頃からそう呼んでいるのだろうか。
「どこに住んでるの? いま」
「さあ、はっきりとは」畳みの縁を足先でこすりながら妻は答えた。「大体は予想がつくけど、ちゃんとした住所は知らないの。そもそも住所のあるところに住めてるのかどうかもわからないわ。やっぱり最初に付き合った子が死んじゃってから、あの人ちょっとおかしくなったのよ」
「そりゃあ少しぐらいはおかしくなるだろう」
「もう六年」
「へえ」
それは私たち夫婦が出会う前の出来事で、妻から聞いた話しか私は知らなかった。
「でもいくら彼に新しく好きな子ができたからって、飛び降りることまでしなくてもとは思うけど」
「あの子、きっと結婚のことまで考えてたんだろうね。そんなの、あの人の性格を考えればとても無理なことなのに。でもやっぱり好きだったんでしょう」
妻は部屋の壁に沿ってゆっくりと歩き始めた。妻がゆっくりと移動していくのを私は目で追っていた。
「彼女が亡くなったとき、あの人、まるで犯罪者みたいにまわりから責められたわ。ほんとにひどかったのよ」
「悪いことが起こると誰かのせいにしたがるものだから」
「でも結局、誰のせいでもないんじゃないかなってわたしは思ってた。今でもそう。そう思わない?」
「とくに男と女のことはね」
「でもそんなこと、わたし一人で思っていても仕方ないのよね。だってあのことであの人の新しい彼女も頭がおかしくなって、結局すぐに別れちゃったんだから」
真向かいの家の人影が気配を察知したようにこちらを振り向いた。私は素早く窓際から退いた。「それで、ゆうべの電話って何だったんだろう」
「だから、東京に彼女ができたってことよ」
「頻繁に会いに行ってるのかな」
「さあ。でもそんなお金ないはずよ。それなのにそんなことばっかりして」妻は立ち止まって溜め息をこぼした。「お母さんのことも全然考えないでそんなことしていて。やっぱりあの人は逃げてるようにわたしには見えるわ」
不動産会社の男が部屋に入ってきた。どうですか? 男はやはり明るい調子で訊ねた。一応簡単にですがリフォームもしていますし、これから外壁なんかも修繕する予定なんですよ。私たちは頷いた。そして、なかなか風情がありますねなどと答えながら、引き上げるタイミングを窺った。男も察したようで無理に引き止めようとはしなかった。
帰りに私たちはスーパーに寄って、昼飯の弁当を買った。そして行きよりもゆっくりとした歩調で自宅のハイツへと戻っていった。別に言い争ったわけでもなかったのに、何かこわばった空気の固まりが二人のあいだに忍びこんでいた。私たち二人にその日何もすることがなかったせいかもしれない。
妻の弟のことを思い出しているうちに、ひょっとすると彼も同じバスに乗っているのかもしれないと思ったりもした。同じように毛布の中で横たわっている人々の中に彼も紛れているのかもしれない。だからといって一枚ずつ毛布を剥いでいくわけにはもちろんいかない。それよりも妻が、あの人は逃げている、と言ったことが引っかかっていた。
彼女が言った半分の意味はなんとなくわかるつもりだった。だが私は彼女の弟に二度しか会ったことがない。だから半分しかわからないかもしれない。
しかしそのとき、リクライニングシートの上で横たわっていると、それは私に向けられた言葉にも思えてきた。私は私で陶芸の雑誌をつくるという仕事にうんざりしていた。陶芸という偏狭で風通しの悪い業界にうんざりし、それにしがみついている出版社にもさらにうんざりしていた。そして出版社の編集部で働いている編集者という人間が妙に高いプライドを往々にして隠し持っていることも知らされた。そんな会社に定年まで通い続ける自分の姿をどうしても想像できず、次の仕事も決まらないまま三年勤めたその会社を辞めることにした。仕事ぐらいすぐに見つかると高を括っていたし、一日も早くその会社と縁を切りたかったのだ。私は求人雑誌や新聞の折り込みチラシに目を通し始めた。そのとき私たち夫婦の収入はゼロだった。妻は妻で派遣社員の契約が切れてしまったのだ。二週間が過ぎても良さそうな仕事はなかなか見つからなかった。こんなことになるなら辞めない方が良かったのにと妻はこぼした。
できるだけ編集者という職種は避けていたのだが、やはり経験もあることから編集の仕事に就きやすいのは確かだった。編集の募集は東京が断然多い。貯金通帳の金額の桁数が一つ減ってしまうと、私はインターネットの求人サイトから求人募集を探して、コンピューター上で履歴書を送信し、返事がきた東京の会社へ面接に行くことにした。
夜行バスは黙々と走り続けていた。どのあたりを走っているのかはわからない。妻の言葉のせいか、ふと何かから逃げている途中のような気もしてくる。だからいつまでも眠れないのだろうか。暗闇の中でいくつものエンジン音が追い抜き、追い越されていった。
私はシートに深く身をうずめて、住所も持たずに街をふらついている彼について一人想像していた。
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