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『人生のカレンダー 「家」の再生の物語(仮)』⑦

「あのね、私、こんなに幸せでいいのかなぁ」

「パパと再会してから、これまでの空白を埋めるような気持ちでいっぱい会うようになって、とっても幸せなんですね」。

「うんうん」。

「そうなんだけど、私、こんなに幸せでいいのかなぁって、思っちゃうんですよ。このことを聴いてほしいんですけど」。

「あー、はい」。

「私、小さい頃、お母さんと一緒に生活していて、お母さんのことを裏切ってはいけないって、ずっと想っていたんですね。それが、自分ばっかりが幸せになっていいのかなぁってなんだか罪悪感というか、不安になってくるんですね」。

「へー、ふむふむ。お母さんへの想いはあるということね」。

「うーん、そうですねぇ、パパとの時間がとっても幸せで、こんなにうれしいことがいっぱいあって、とても充実しているような気持ちなんです」。

「あー、そうなんだね。それで心配なのは、双極性障害じゃない? 躁状態かどうかだよね。それはどうなのかなぁ」。

「ええ、そうですねぇ」。

「どう?」。

「うーん、以前、躁状態のときは一日三時間しか寝ないとか、一回のイベントで千人集めるとか、現実離れしていて、こんな状態は続くわけがないので、へたってしまって、起きられなくなっていたんですね」。

「うんうん」。

「普段の生活もめちゃくちゃになってて、う~ん、なんだか妄想を追っかけてるような感じだったんですね」。

「うんうん、長期の行動計画とか、取り敢えず手を付けてすぐに成果が出るような具体的な短期の作業設定とかはなかったの?」。

「そうですね、勢いだけでやってたので、そりゃ疲労するし、結果は伴わないしで、ハイな状態から抜けてしまうと、ものすごい疲労感で動けなくなってしまったりしていました」。

「そうなのね」。

「躁状態なだけにねw でも、今は全然そういうことはなくて、ありきたりな会話がとっても嬉しいし、すぐに作れるお惣菜をパパがおいしいと食べてくれたりすることが嬉しいし、心の中から充実した感じが湧いてくるっていうか…」。

「手ごたえを感じるというか、満たされているというか…」。

「そうそう、満たされているという感じが凄くするんですね。今までは、どこか心に穴がぽっかり開いていたというか、満たされない思いがあったんですが、パパと一緒にいられるという今の当たり前の状況が、ずっと離れ離れになっていた間も私のことを想っていてくれてたんだなぁって教えてくれるっていうか」。

「あー、今の気持ちはどう?」

「私、今までずっと不安だったんだなぁ、寂しかったんだなぁって」。

「不安で寂しかったと」。

「そうなんです、それで、このね双極性障害って病気になって、もう自分ではどうにもならないし、どうにもできないって状態になったんですけど、何かずっと焦っていて、何かしなくちゃ、何か行動しなくちゃ、自分は何かみんなからすごいねと言われるような完璧な人にならないと生きている価値がない人間なんだってずっと思っていたんです」。

「完璧な人ね」。

「そうですね、でも、私はパパの娘ってだけで、ずっと大切に想ってくれていて、今もこうやって会ってくれて、カラオケに行けば一緒に号泣したり、バーッと思い出に色がついたりして、こういう時間を一緒に過ごしてくれるって、凄いことなんだなぁって思うんです」。

「おー、凄いすごい。とするとね、この双極性障害って病気には、あなたにとって何か大きな意義があったのではないかと思うなぁ」。

「ずっと自分で自分のこと価値がない人間だって思い込んでいたし、不安で寂しかったんだという気持ちと、これを克服しなくちゃってずっと焦っていたり…」。

「自分のこと見放しちゃってたんだね」。

「あー、あーーー!」。

「これ、僕の勝手な妄想だから、話半分に聞いてほしいんだけど、あなたの中の本当のちかちゃんが、自分のこと振り返って見てほしいって、いっぱいいっぱい叫び続けていたんだけど、どうにも振り向いてくれないから病気という非常手段に出たのではないかと」。

「それ、なんかわかります!」。

「それでね、あなたの中の本当のちかちゃんは、とっても弱くてひとりでは何もできないんだけど、実はすっごく生きようとするバイタリティーと意欲にあふれているのよ。だから常に誰かの手助けが必要で、これは自分を見つめてくれる誰かの姿を感じて、やっと自分を満たすことが出来て安心って思えるのよ」。

「あー、満たす、うんうん」。

「だから、あなたの病気があってね、おばあちゃんの大仕事があって、パパとの再会があって、おばあちゃんとパパがあなたのことずっと想っていてくれたってことが、すっごく薬になったというか、とっても栄養になっているのよな」。

「なるほど」。

「すごいタイミングだよね、すべてがピタってはまっているというか」。

「本当にそうですね」。

「この状況がね、自分が自分で居られる心の居場所というか、こういうつながりのある人間関係が家というかさ」。

「はぁー」。

「これは悪いこと?」

「いえいえ、良いことだと思います」。

「だとしたら、あなた幸せになっていいのよ」。

「そうなんですね、そっかー!」。

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人の心はロケットのようなものだ。

ロケットは膨大なエネルギーを生み出すことが出来る。

このエネルギーに方向性を与え、一定方向に一気に噴出させることで、宇宙に飛び出すことも出来るが、方向性を失ってしまえば大爆発してしまう。

この方向性を与えるためには、大変多くの人の手によって注意深く行われなければならない。

とはいえ、方向性を獲得するために、自分への視線を向けるということは、言うのは簡単だが、具体的にどうしたらよいのか具体的に行うのは大変難しい。

たしかに、私たちの中には、生きようとするバイタリティーや意欲はあるのだが、これをどのように生かすかという形を与えるものは希薄なのかもしれない。

逆を言えば、私たちの心にあらかじめ形がないからこそ、周囲に合わせて適応することもできる。

本来の私たちは極めて柔軟であり、従順であり、ニュートラルな意味で極めて素直な生き物である。

問題はこの生きようとするこのエネルギーを周囲の力を借りながら一定の方向で如何に無理なく噴き出させるかということなのかもしれない。

要は、私たちは、互いに誰か自分に関心を持つ人の関心 の持ち方を手掛かりにしながら、自分への関心の持ち方を学ぶのだろう。

この互いに関心を持ちながら自らの心に方向性を持たせ、心の形を作り上げるダイナミックな働きが人生のカレンダーを進めることであり、そして心の形とは家そのものだ。



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