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Creepy Nutsから学ぶ! これからの生き方!!

今朝、何気なくYouTubeでCreepyNutsの『かつて天才だった俺たちへ』というMVを観たんです。

朝から僕の脳に突き刺さるリリック!

そして鼓動を刺激するリズム!

内に秘めた何かが覚醒しました!

一度この曲を過去の自分に照らし合わせながら聴いてみて下さい!

⬇️歌詞抜粋⬇️

苦手だとか怖いとか気付かなければ
俺だってボールと友達になれた。
頭が悪いとか思わなけりゃ
きっとフェルマーの定理すら解けた。
すれ違ったマサヤに笑われなけりゃ
ずっとコマ付きのチャリを漕いでた。
力が弱いとか鈍臭いとか知らなきゃ
俺が地球を守ってた。
中略
似たような形に整えられて見る影もない
中略
生まれてこの方一体いくつ
分岐点を見過ごしてきたんだろうか
墓場に入るまであと一体いくつ
可能性の芽を摘んでしまうんだろうか
中略
何にだってなれたAnother way

「あー、あの時こうしておけばよかったなぁ」

「あの時に違う選択をしていたら、今はどうなっていたんだろう?」

あの時の自分の「感情」「思考

あの時受けた他人からの「誹謗

あの時感じた他人との「違い

その場をやり過ごしたい思いや羞恥心から、無難な選択をした

こんなこと、よくありますよね?

このように、我々は自ら似たような形に整おうとしているようです。

今思い返すと過去には幾つもの分岐点が存在し、

その地点毎に選択を求められるが、

いつも無難な決断をしてきました。

そして、その分岐点に第三者として存在していたこともあります。

新しいことに挑戦する人に対し、こんなことを言ったことがあります。

「いや、それは無理だよ」

「できるわけないよ」

可能性の芽を摘むのは自分の弱い心だけではなく、

他人の弱い心の声が影響することもあります。


おわりに

私はこの曲から

「可能性の芽を摘まず『なりたい者』になる」

「今からでも何にだってなれるんだ!」

という自信をもらいました。


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このnoteの記事は私の個人的な歌詞の解釈であり、作詞者の意図とは異なっている場合があることをご理解ください。
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