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認知の歪みを感じた時の対処法、無気力感について

 メッセージでも対面でも、会話をしていて「ああ……」と頭の奥で、哀しい音が出ることがある。返すのに正解の言葉を、私は知っている。しかし、私は本当は、全く逆のことを言ってしまいたい。

 貴方の認知は歪んでる、私は全くそうでない、と指摘できる時と指摘できない時がある。最近では、あまり指摘しないことが多くなった。私も同じように思っているだろうと思って発せられている言葉に、嫌、と言えないほどに、最近の私は弱くなったものだ。もちろん完全な悪意から来る者には私はどんな状況でも何か言いたい。そうではなく、貴方も、そうでしょう、という好意からくるさりげない同調、これに抵抗して一体何になるのだろう、という話がしたい。

 もちろん、あなたもそうでしょう→はいそうです、の時の感動といったらないのだが、それで感動してしまうと、私はあなたに特別な気持ちを抱いてしまうから、ある程度距離をとらなければいけない。

 以前から殆ど指摘しないけれど。直接会って話している時が、一番指摘率が高くはなる。こだわりが強いので、自分の意見をまくしたててしまうことも、わかっているから。メッセージや電話だと微妙なニュアンスが誤解を生む。お前それ言わんほうがええぞ、ってことを、対面でない状態で実施すると往々にして壊滅的な事態になる。

 そうして、私は自分の声を、どんどん遠くに感じるようになる。しかし、無気力に話している時、私は同時に安らいでもいるのだ。どういうことかというと、気張って話そうとしている私は、完全武装体の私であり、はきはきとして元気であるし、全く思っていないことを言っても、大体プラスの、正解もしくはニアピンに近い回答をだしているので、大丈夫だ。しかし常にこの私は、もう1人の私に俯瞰されている。

 だらだらと覇気なく、のんべんらだりと、話せている時は、何となく心地よい。それを許してくれる相手にも実に感謝する。だから、相手の認知の歪みも川の流れるように受け流して、ははは、と誤魔化すように、無気力に笑っていたりすることもある。

 元気であれ!私も、特に俯瞰せずとも、私と同一化してエネルギーに溢れている時もある。一人で散策している時に町民にエンカウントして会話が発生する場合など、これに近いかもしれない。

 倫理について考える。倫理観のずれは人によってかなり差がある。人と接している時即ち、常に地雷原を突っ走っているような物で、平均的な集団などでは、基本、黙している。頑張ることもできる私だが、状況によっては時間を無駄にしたと悔いても悔いてもどうにもならない状況に陥る。

 意外なことに内心でキレて、これは体内から出ていけていない超絶なエネルギーが充満している時に起こることが、わかる。そういう時は、創作に限る。

 私は以前よく脳内で、たとえ相手がどんなに良い上司であろうと、聖人であろうと、相手の絶望する境遇を、非倫理的な境遇を考えずにはいられなかった。それほど会話の最中、常にすべてに絶望していたからだ。オートマチックに私は四輪駆動のごとくコミュニケーションの中を、走り抜けているが、心の中で常に絶望しながら、旗を振って、四輪駆動に乗っている私を、遠くから応援している。分離した私。

 この旗振り係の私のフラストレーションが、目の前の男及び女及びその他の最も絶望している瞬間を思い描いている。こいつのことを消そうとしたり、嫌ったりしては、いけない。こいつの存在にも意味がある。

 こいつを憎んだこともある。何て酷い奴なんだろう、と。しかし、こいつが存在しなくなった私は、きっとすぐに死んでしまうから、図太くて最悪なこいつを今もまだ心の奥に棲ませている。こいつが一体いつからいるかといえば、生まれた時から居た。

 誰の心の中にも、生まれた時から(或いは生まれる前から)居て、だんだんと、無意識の内に隅に追いやられる存在だろう。だって、そんなもの育てても、この世界で生きるのには、不都合でしかないから。

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