【女子高生エッセイ】『年輪を正しく刻んで🌍』
人という生物はやたらと旅が好きと言うが、今回の修学旅行と呼ばれる遠出で「なるほど。普段とは違う何かを感じる。」と納得したものだ。
作家の卵としては間抜けなもので、漠然とした"異質なもの"だけを掴んで地元に戻った。
ここで記念の写真をあげるのと同時にその異質さを噛み砕いて記録しておこうと思う。
まず、旅をするにあたって普段と異なることは何だろうか。
私は時間の流れに特に着目すべきだと思っている。
旅には大きく分けて2つの時間がある。
1つ目として、【移動時間】である。旅にはどうしても到着までの時間がある。
帰路に関しても同様だ。
移動時間には鼓動が高鳴り、あとどのくらいで到着するか何度も時間を確かめるものである。
また、時間を確認するごとに自己の旅へのソワソワした気持ちを認識し、さらに期待が高まっていく。そういった次第である。
この時間の使い方は人それぞれ違っている。
本を読む、音楽を聴く、備え付けテレビで映画やドラマを鑑賞する、睡眠をとる、共に旅をする仲間と語り合うなど。
しかし、この時間はどのような過ごし方をしても大抵時間の流れは普段とは変わらない。
どれだけ目的地に到着するまで、鼓動が鳴って胸が騒いだとしても、それはいつもの自分でしかない。
まだ旅は時間におけるスタートを切っていない。
私が重要視するのは、2つ目、【現地時間】である。
ここでいう現地時間とは、現地が何時であるかといった具合ではなく、《現地での過ごす時間の"流れ"》についての言葉と定義づけさせてもらう。
現地時間は加速したり、減速したり、ときには止まったりもする。
止まるというのは、もちろん実際に時間の流れが止まるわけではなく、止まったように感じるほど短い時間が体感として長くなる、ということである。
先述した通り、私が重要視しているのはこの現地時間であり、そして私が旅を通して感じた異質なものとは、この現地時間によるものだった。
旅の目的地着いた瞬間、前触れもなく時間のスタートが切られる。
大抵の旅では、帰路につく日時が決まっているものだ。(ここでは放浪や無計画の旅場合などは除く。)
私の中では限りのない旅、つまり自宅に戻る予定が決まっていない旅というものはこういった現地時間を十分に味わうことができないと感じる。
有限であることが美しさや楽しさだと一概に言えるわけではないと思うが、旅に関しては有限であることは貴重な要点となる。
日常にまた戻るための英気を養うために人は旅をする。
話は戻るが、前触れもなく切られた時間のスタートは、旅の終了へと少しずつ迫っていく。
砂時計の上下を入れ替えたように、ただ1秒ずつ時間を刻んでいく。しゃらしゃらと同じ量の砂を落としていく。
しかし、私たちは同じ量の砂を落としている感覚にはならない。
砂が落ちるのが速い時もあれば遅い時もある。たまに詰まったりもするし、気づいたら上の砂は無くなっていたなんてこともある。
そういったところが普段過ごす時間の流れとは異質なものと感じる。
旅を共にする仲間と過ごす時間、交わす言葉の数々、旅先の空気を胸いっぱいに吸える回数、目に映せる光景、そのどれもが実は有限で2度は体験できない再現性のないものである。
何年後かに同じ目的地へと旅に出て、同じ地点にたどり着いて、肺をいっぱいにして空気を吸っても何かが必ずちがうはずだ。
旅へ一緒に出た人がたとえ数年前と同じ人であっても、紛れもなく何かが変わっている。
目に映る光景は変わらないかもしれない。
それでもきっと、あなたは変わったと感じる。
人間は必ず老いていく。
いつか身体は老いない素晴らしい技術が発見されても、心だけは正しく年輪を刻んでいく。
私たちは上手に今の心と向き合うことが必要である。
なんだか大袈裟なようで、社会的には当たり前と呼ばれることを学んだ。
そういうふうに学生を大人にしていくのが修学旅行というものなのかもしれないなと感じた。
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オリジナル記事(Original article)
要約•挿絵あり(English summary with illustrations)
完全英訳版(English version of the essay)
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