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【日記 番外編】淀川の''よどちゃん''と無関係などという免罪符についての話。

少し前の話題になるがずっと触れたかったのでここで触れてみます。

みなさんは淀川に突如現れたくじらのことを覚えているでしょうか。大阪湾の淀川河口付近にくじらが迷い込んだ話だ。

彼(彼女?)は突如として淀川河口に現れ人々の注目を集めた。沢山の人が溢れる大阪という都市に水族館以外ではあまり見ることができないくじらが現れた非日常的な出来事となったためだろう。

そのくじらは''よどちゃん''と呼ばれ(かなりありきたりなもじりだが)連日ニュースにも取り上げられた。まるでちょっとしたマスコットのような扱いだ。楽観的に見れば野生のくじらを目にすることができる絶好の機会である。しかしなぜ迷い込んでしまったのか、果たして健康状態は大丈夫なのか、海に戻れるのかなど懸念する声も多くあった。

自分は後者で、ニュースを見てから毎日くじらのことを気にかけてしまった(直接見ることもできず何もできることはないが)。自分がそこまで関心を寄せた理由として、昔読んだ本のなかに流氷の下に迷い込んだくじらがそのまま死んでしまう話を扱ったものがあったからだろう。

その本の影響で今回のくじらの話題も何だか他人事のように捉えられず、このまま虚しく死んでしまわないだろうかと不安だった。

そんな不安を他所にくじらは海に帰れずそのまま死んでしまった。

ここらかは少しひねくれた自分の考えを敢えて書こうと思う。

運悪く迷い込んでしまったくじらは一際注目を浴び、人目に晒されたまま死んでしまうこととなるが、時間が経てばそんなことは忘れ去られてしまう。なんと無情。まさに良い見世物だ。初めは珍しいものに興味を示すが死んでしまうと「ふーん死んじゃったんだね」と恐ろしいほど無関心になってしまうのだ。自分のことを棚に上げたくは無いが人間の冷たさの片鱗がうっすらかつ色濃く現れてしまう瞬間である。

別に自分は動物をこよなく愛するいわば動物愛護の心に満ちた慈愛の人間という訳ではない。しかし1つの命が迷いながら失われてしまったという事実にはひどく胸が痛む。同情などという薄い共感をしたい訳でもない。ただどうしても悲嘆とも言えない焦りにも近いような感情が溢れてしまうのだ。どうすることもできないむず痒さと、自らの偽善とも言えるような同情心に嫌気がさして自己嫌悪に走りそうな程に......。

恐らくさらに時間が経てば自分だって淀川のくじらのことを忘れてしまうだろう。日常に干渉のないことはいともあっさりと忘却。所詮その程度の人間だ。無関心という盾を免罪符として身勝手に一喜一憂する1人であることに間違はいない。

完璧な聖人は存在するのだろうか。全ての生き物や事象に対して悲しむことができ、手を差し伸べられる人間などいないのではないだろうか。でも少なくとも他人や生き物と共に悲しむことができる''想える人間''には最低限なりたいものだ。そして何もすることができない無力感さえより人間を強くするのではないだろうか。

まだまだ年端のいかない自分だが答えのない葛藤の側面を見た気がする。こうして気持ちを整理する機会も大切なのだ。

意味の分からない思想を書き記したが、今となってはよどちゃんが安らかに眠れることを祈るばかりだ。

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