暇という概念

定期的に暇が欲しくなる。
というか、私に暇という概念は無いのかもしれない。

急ぎの事が無いと壁を見て一日を終えてしまったり、空を見て雲が流れている様子を見て何時間も経っている事がある。
これは、暇だからやるのではなく、私にとって何もしないという一つの時間の使い道なのだ。

もはや、それをする為に時間を作っているのかもしれない。

車の免許を取り、眠れない日は1人でドライブをする事が多々あった。
行く先は大抵海で、堤防に座り、波をただ見つめるのが好きだった。特に嫌なことがあった訳でもないが、波がただの海に戻っていくのを見ていると、何もしなくても、時間は進んでいるなあと感じるし、何故か強く生きようと感じる。

同じように、空を見て雲が流れているのを見ても生きるか〜となる。高校時代、雲を眺めていたらだんだん朝日が昇って来てびっくりした事があるくらい、私は長い時間ずっと何もしない時間を過ごす事ができる。

このように私は何もしない、1人の時間が好きだ。

勿論人とどこかに行って遊ぶ事も好きだし、遊園地に行くならば一日中友達とはしゃぐような人間である。予定を立てる時にはルンルンでウキウキなのだが、私はノロマなので必ずその予定通りにならない。
しかし私は、なりゆきでどんどん変わる予定が好きなのでそれを悪いと思わない。いや、そもそも事前の予定ってその時の自分たちの感情を加味した予定じゃなくない???変わるものじゃない???となる。

その持論は持ちつつも、人と遊ぶ際には相手のペースに合わせ、予定を狂わせないようにする。少しでも空気が乱れたら(怒ってるだろうな……!あそこ、いきたかっただろうな…!)と不安になり、精一杯迷惑にならないようにみんなに合わせて急いで行動をする。「トイレに行きたい」なども、幼なじみ以外には自分から言えないのである。

その時は、何不自由なく楽しいのだが、家に着いた途端床と同化をする。そして、何日間か引きこもる。その度に(疲れてしまうんだな)と気付く。人と遊ぶ事が億劫になり、連絡も返さなくなる。
私は、妙に繊細な人間なのだが、人にそれを悟られるのが苦手だ。自分のペースに無理矢理合わせられる感覚がどうも心地悪いのである。人に気を遣わせているな、と思ってしまうし、相手がそれを否定をしても(いや気になるな悪いな)と勝手に想像で決めつけてしまう。

こんな性格なので、人と2人きりで遊ぶという事があまり得意ではない。何もしない時間というものが存在しないからだ。必ずその人は私の事を気にかけ、私もその1人のことを気にかけていなければいけない。

1対1ではなく、複数人で集まっている時は、ふと会話に入っているのに疲れてしまい、離脱してぼーっとできるのだが、2人きりでいるのに突然ぼーっとしたら『何考えてるの?』『なにみてるの?』と言われるだろう。本当に何も考えていないし、壁などを無心で見ているのだ。

そう答えると、不思議そうな顔をする人がいる。
例を挙げるならば、私の家族である。

私の家族は、ぼーっとできない。一度『考え事、好きだよね』と言われた際に「本当に何も考えてないよ」というと驚かれた。
ぼーっとしたくても、頭が働いてしまうものだと家族から言われ、(ぼーっとできない人間もいるのか)と逆に驚いた。

そう考えると、『暇だー!』とSNSで呟いている人はそういう、何も考えない時間がない人間なのかもしれない。私は、暇だと思った事がなく、何をするにおいても『暇だからやっている』ことは無い。

今現在、やらなきゃいけない事は沢山あるのに、自分で「何もしない時間」を無理やり作っている…いや、何もしない時間だと決めつけている。なので、これから1,2ヶ月はアホみたいに忙しい日々になるのである。何もしたくないし、何も考えたくない。こうやって脳死でnoteを書いているくらいが私にとって丁度いいのだ。

しかし課題の期日は迫ってくる。卒論の経過発表も。実習後のレポートだって貯めているし、実習中に出ていた課題たちだってまだやっつけていない。そういえば住所変更だってしていない気がしてきた。あれ?私ってやばくない?????全然暇を作ってはいけない人間じゃない???????????

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