最強の兵隊(1)

三谷にとって、水曜日はもっとも憂鬱な日だった。

一週間の真ん中だからというわけではない。水曜日はデスクと編集長が集まる「編集会議」があるからだった。

決まって憂鬱な水曜日。三谷は、普段よりもずいぶんとゆっくりした速度で駅から社屋までの道を歩いていた。

三谷が所属する「週刊東洋ビジネス」では、毎週火曜日にデスクが受け持つチームごとに小さな”案出し”のミーティングが行われる。通称、デスクミーティングだ。兵隊である記者たちが日々の取材から得た情報をもとにして、特集やレポートの案を出す。そして、翌日の水曜日にデスクである副編集長たちが集まり、編集長も交えた編集会議で企画のラインナップが決まる。特集やボリュームのあるレポートは大体2〜3週間の取材期間が設けられ、誌面になる。小さなトピックスであれば1週間で取材から執筆までを行い、誌面に反映される。

水曜日は、編集会議が終わった後に、決まった企画ラインナップがA4のコピー用紙に手書きでまとめられホワイトボードに貼り出されるのだ。

普通であれば、下取材を行ってきたネタをデスクミーティングで自信満々にプレゼンして、ワクワクして貼り出しを待つであろう。しかし、三谷は違った。それもそうである。三谷は、大卒2年目。先輩記者の尻にくっついて回る期間が終わり、ようやく一人で取材活動をはじめたばかりだ。ネタらしいネタなど持っていない。ネタを引っ張ってこれる人脈もない。毎週のデスクミーティングでは、どうやってプレゼンしようかと苦労していた。そもそも持ちネタがない。ありもしないネタをプレゼンすれば、取材が行き詰ることは目に見えているのでそれもできない。最悪、記事に穴を開けてしまう。結局のところ、渋い顔をしてデスクに許しを請うようにアピールするくらいしかできない。

ネタを持たない記者にとって、企画ラインナップの張り紙が出される水曜日は審判の日だ。どうか自分の名前が無いように、と祈りながら出社するのだ。

少し時間を巻き戻そう。遡ること2週間前のデスクミーティングのことだ。

三谷が所属するチームは、金融担当のデスクである藤本を頭にして、銀行担当の田村、証券担当の小杉、運輸担当のベテラン女性記者の笹原。そして三谷で構成されている。田村は「来週K銀行の専務にネタを当てます。そこで確証が得られれば、ネタ行けそうです。そのときはトピックスください」と”予約”したかと思えば、小杉は「僕はネタ足りなければ何か書けますから言ってください」と言う。笹原は「今特ダネの仕込みです。あとは当てるだけなんですが、、。その時は緊急レポートを私にください」と、田村を上回るレポートの予約を打診した。笹原の下で丁稚奉公をしている三谷は、笹原同様の運輸担当。しかし持ちネタは無し。他の面子が積極的に記事の確保をアピールしている一方、貝のように黙っているしかできなかった。

しかし、デスクの藤本にごまかしはきかない。それもそのはずだ。藤本は業界きっての書き手で知られていた。メガバンクの重鎮たち、ほぼすべてに携帯一本で直アポをかけられるネットワークを持っている。ミーティングの前日も、ある銀行の役員連中との徹マンに付き合っていたほどである。そんな記者だから、人の機微を敏感に感じ取ることができる。クタクタのワイシャツの上に載っかった大きな顔。そこに細筆で描かれたような目がジッと三谷を捉えたかと思ったら、一言放った。「ネタ、無しか?」と。

できる記者特有の表情のよめなさ。そこから放たれる一言は刃物のような鋭さがある。三谷は当然、嘘はつけなかった。答えは「はい」というか細い声だけ。

「そうか。笹本、たしかヒノマル運輸は宅配便が厳しかったよな?」と細い目の奥に隠れてる黒目がぐるりと動く。

「はい。業界ではもっぱらそうだとされていますね。間違いないかと思います」と笹本が応じる。

「三谷。お前、ヒノマルで一本トピックスを書け。宅配便で」と言ったそばから、企画案をまとめている手控えに「三谷、ヒノマルで一本」と書きつけた。

新人記者は大抵、ムチャ振りとも思えるトピックス記事の千本ノックをこなすことで一人前にしようという鬼のOJTが行われる。三谷も世代の近い先輩記者から聞いていたので覚悟はしていたが、内心「来たか」と思ったものの「わかりました」と応じるより他はなかった。

こうなると翌日の張り紙にはきっちりと名前が書かれている。大急ぎでヒノマル運輸に取材を申し込み、なんとか原稿を書いたもののしっちゃかめっちゃかに直しを入れられて出来損ないの記事が誌面に載った。厳しいと言われる宅配便事業について、赤字額などのファクトのない記事。直しを入れた藤本も「こりゃキツい記事だ。まあ、ドンマイ」と半ばあきれたほどだった。経済誌において、数字のファクトがない記事はそれだけで失格なのだ。企業がオープンにしていること以外の”知られざる事実と数字”を誌面に反映してこそ、記事としての価値が生まれる。藤本の筆の力でなんとか体裁は整っていたが、読む者が読めば落第だというのがすぐにバレる。そんな代物だった。

あわてて申し込んだ取材。赤字額を教えてくれと懇願する最低の取材。当然取材を受けたヒノマル側も自社のデメリットになるようなことを率先して開示することなどない。「そんなことはありません」と突っぱねられた。そして出来上がった不出来な記事。それらがぐるぐると三谷の頭の中で回る。当然、張り紙がある会社への足取りは重い。もっとも、トピックスを執筆したのは2週間前だ。連続してトピックスの記事は割り当てられることはないというが通例だ。大丈夫だろう。デスクミーティングでも貝のようになっていたら「今回も無しか」と藤本に軽くスルーされたところだ。今回はない。そう自分に言い聞かせながら、編集部につき、一応ホワイトボードの張り紙を見た。

そこにはこうあった。

企業もののレポート 4ページ ヒノマル運輸「苦戦を強いられる宅配便事業について」 担当:三谷

ちょっと待て。なんでだ。トピックスと同じネタ。しかも4ページのレポートもの。ミーティングでも一切何も前フリはなかったぞ。頭の中で整理がつかない三谷。

「リベンジしろってことだわな」と、後ろから藤本の太い声が響いた。ノシノシと大柄な体をゆすりながら近づいてきて、パンッと三谷の肩をはたく。学生時代ラグビーで鍛えた藤本の一撃は、本人にとっては軽くでも、常人にとっては重たい。気が動転している三谷にとってはなおさらである。

闘魂を注入して、役目が終わったかのように藤本はかばんを手に取材にでかけてしまった。

3週間の取材。ネタなし。人脈なし。4ページの紙幅。無理だろう。最悪、4ページのメモ帳が誌面に出来ることになるぞ。なかば本気でそう考えた三谷。何度張り紙を見直しても、内容は変わらない。張り手の感触もまだ肩にある。これは嘘じゃない。地獄が始まった。

(続く)

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