見出し画像

記録写真と経験写真

こんにちは、カマタニです。久しぶりに書かせていただきます。

最近、記録のための写真をやめました。旅先や見にいった建築(建築学生なので)で、行った証を示すための写真、記録のためだけの写真を撮ることをしなくなりました。どうせあとで見返さないし、誰かが撮ってくれているか、もうすでにどこかにあると思ってしまうんです。 

そうではなく、目の前に広がる空間を使って自分の作品をつくるという意識を持つようになりました。目一杯に広がる景色の中から一部を切り取り、光や揺れる木々、時には上空を横切る鳥の姿を借りて写真という作品をつくる、そんな感覚です。王道を記録する必要もなく、全てを収めておく必要もなく、何となく肩の荷が降りた気もします。

画像1

そうすることで、目の前の景色と自分が意味づけられる気がしました。目の前に広がる、見たことのない景色の中に、お気に入りの瞬間を見つけ、心に響く場所を作り上げる、自分を投影する、そんな感じでしょうか。

由緒ある名所も、有名建築家の名建築も、歴史ある伝建地区も、そこでは自分の作品のための、豊かな時間のための素材になるのです。めちゃくちゃ偉そうですが、全然健康な状態だと思います。どれも使われるために存在しているので。建築も建築学生に感動、驚愕を与えるために建ってないですし、きっと利用してくれてありがとうと言っているでしょう。 

画像2

 以前、超有名建築、千住博美術館に訪れたことがあります。ずっと前から知っていて、勝手に自分の中でハードルが上がっており、本当に自分のイメージを超えてくるか、少し怖かったです。でも、心配無用でした。めっちゃ良かったです。そこで不思議な気持ちになりました。 

 普段、美術館に展示されている絵を見ても、自分とは距離を感じてしまいます。貴重な名画であれば、有名人に会ったような、非日常体験となる気がします。また、本当に美しい、精巧な作品であれば、自分では到底生み出せないその技術とセンスに感服し、感動する気がします。逆に、距離が遠いからこそ、見に行く価値があると言えるかもしれません。絶対自分ではつくれない、滅多に見れないから行くというのはあると思います。

画像5

 しかし、千住博美術館で感じた感覚は違いました。例えるなら、自分の家の好きな場所に飾ったお気に入りの絵を眺めている感覚でした。日常生活の中で目にし、日々をちょっと豊かにしてくれる、そんな絵との関わりと似た感覚があったのです。何か、自分と意味づけられた気がしました。その美術館で過ごしているその時間、その体験のストーリーの中に組み入れられ、自分と結びつけられた気がしました。 

画像3

 それはなぜでしょうか、正直まだよくわかっていません。展示スペースか、建築エレメントか曖昧なところに作品が展示されているせいなのか、自然光のせいなのか、緑と重なって見えるせいなのか、自分の好きなところで作品を見れる椅子の配置のせいなのか…とりあえず、居場所の選択の余地があること、自然光や木々をとりいれることで空間に柔らかい揺らぎが生まれたことは影響していそうです。

もちろん千住さんの作品の素晴らしさもありそうですね。作品なのか、建築なのか、その組み合わせなのか、何が影響したかわからないですけど、とりあえずすごい空間ができていました。今更なのかもしれませんが…

画像4

名画、名建築ではあるのですが、自分自身のストーリーと結びつくことができ、自分ならではの豊かな時間が作り出せた気がして、改めていい場所だなと思いました。 冒頭の写真の話と同じですね。建築の力を再認識できて良かったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?