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「イサム・ノグチ」の石から声が聴こえた気がして

『イサム・ノグチ 発見の道』という展示に行ってきた。実家の階段にはイサム・ノグチの「あかり」が天井からぶら下がっている。母が好きなこともあって名前は知っているけど、何をしてきた人かは詳しく知らなかった。
2年ぶりの上野の美術館は、詳しくない人間も変わらずやさしく迎えてくれた。

美術館に行くと、いつも音声ガイドをお願いする。しかし今回はもう一つのアイテムがある。それはイサム・ノグチの大ファンと言うサカナクションの山口一郎さんがセレクトした音楽を聴きながら鑑賞できるというものだった。

学生の頃からサカナクションが好きということもあるけど、上野に着くまでに山口さんの「ノグチを語るインタビュー映像」でこの企画への想いに惹かれ、今回は音声ガイドではなく「サウンドツアー」を選ぶことにした。

「ノグチが聴いたかもしれない音楽、ノグチに影響を与えたかもしれない音楽」というコンセプトで、ノグチが生きた時代と音楽の年譜、ノグチが旅した土地とその場所の音楽や楽器、そんな分析を踏まえてセレクトされたサウンドツアー。
3フロアある展示のそれぞれの空間、作品にフィットするような構成になっているらしい。

熱い。熱すぎる。サウンドツアーの分析も無知の私にわかりやすく書かれた丁寧なパンフレットに感激した。

さて、目で見ないことには何も始まっていない。早速ヘッドホンを装着して、最初のフロアに一歩踏み入れると、いきなり目の前に150灯もの「あかり」が浮かんでいる。永遠に広がる夜空のように感じられ、大きく深呼吸したくなる光景だった。耳からはこの空間に合うためにと構成された音楽が流れている。周りが何も気にならない一人だけの贅沢な空間と時間を、一瞬にして手に入れることができた。

初めて見るノグチの彫刻の数々。ブロンズやアルミニウムなどの金属でできている作品たちが並んでいる。真剣に見つつ歩み進めながら、ここであることに気づく。

私、この作品たちがわからないかもしれない。
金属の作品に心がそこまで動いていないかも。

自分の感覚に少しの不安を抱きながら、何かにすがりたい気持ちでサウンドツアーとともに足を運んでいく。そんなときにふと見過ごせないものが目に入ってきた。『通霊の石』という題名の作品だった。石に金属が貫通しているような。普段目にしない違和感を感じつつ、石の剥き出しの肌触りになんだか目を奪われてしまった。

それ以降、石の作品が続き、断面美や色の違いに魅せられながら、石から「想像」という風を吹きかけられているような感覚があった。
自分で自分の中だけで見たものから想像させられるもの、想像したくなる作品が続いた。ここであることに気づく。

私は作品に「温度」を探しているのかもしれない。
「温度」を感じられるものが好きなのかも。

そんなことを思いながら、次にイサム・ノグチの動いてる映像を見た。石を削る音がいいな〜なんて思っていたら、「地球は全部石」と言うノグチの言葉が耳に入ってきた。無性に耳に残ったその言葉を連れて、最後のフロアへと向かう。

最後のフロアの名前は『石の庭』。ここまでのフロアは撮影が可能だったけど、ここだけは撮影禁止。確実に意味があると思ったけど答えはわからないから、初めて誰も携帯を顔の前に出していないその空間に入り込んでみた。みんな自分の目だけで作品を見ている。

いきなり気になって仕方がない石に出会った。作品名を見ると『カエリ』だった。エリカという名で生きてきた人間からすると、そう簡単には見過ごせない。しかもあえてのカタカナ。「帰り」なのか、「還り」なのか、色々想像したくなり立ち止まっていた。

何に惹かれたかというと、まず石の色。断面が青みががっていて、時間を経てこのグラデーションになったのか、一色ではない石の断面をずっと眺めた。

そして言葉で言い表せない形。四角とか丸とかじゃなく、何を表現したいのかもこちらで勝手に考えていいことを許されるような形。その「異質さ」も魅力の一つなのかもしれない。容易に言葉にできないからこそ、見入って、想像させられ、自分の中だけで感じ取れるものがある。そしてそれすらも言葉にはできない。ただ「何か気になる」のパワーが強いことはわかる。

山口さんがサウンドツアーの最初に言っていた。
「みんなどう思ったんだろうということが気になったり、みんなの意見を見た上で考え直すことが増えてる気がする。わからなくてもいいから、自分が最初にどう思ったかを大切にしてほしい。そしたら、わからない中にも光を見つけられる」と。

見ていくうちにあることに気づいた。

この石が好きなのかもしれない。

立ち止まってずっと眺めてしまう石の種類がすべて同じだった。「玄武岩」という石。石の断面に触りたくなる感覚だけじゃなく、ぬくもりとストーリーがあると思った。

一つ前のフロアに各石の説明が書かれていたけど、その時は「この石が好き」に気づいていなかったため、ささっと流してしまっていた。どうしても気になり、その説明の場所に戻った。

どうやら玄武岩は晩年に使用されていたらしい。ノグチの晩年の制作手法は「自然石の声を聞いて、ちょっとだけ手助けしてあげる」と語っていると、耳元で山口さんが教えてくれた。

『石の庭』をもう一周した。やっぱりその石が好きだった。石から鼓動すら聞こえそうな気がした。生きている。石にはやさしいだけじゃない熱いぬくもりがあるとこの展示で感じた。

後日、この展示に行った話を後輩にした。
「なんで最後の展示だけ撮影禁止だったんですか?」と聞かれ、「石の色が変わっちゃうとかあるんじゃない?」とわけのわからない返答しかできなかったことが悔やまれた。

その次の日に調べると、「香川県の牟礼(むれ)にあるイサム・ノグチ庭園美術館が撮影禁止だからそれに従って」という言葉を見つけた。なんでそもそも禁止なのかは書かれていない。こうなったら牟礼に聞くしかないと思い、朝から美術館に電話をかけた。わけのわからない人間からの朝9時の電話にも関わらず、耳元でもわかるやさしい微笑みの声で穏やかに教えてくれた。

「牟礼の美術館はアトリエ空間でノグチ先生の失礼にあたるので、最初から撮影禁止にしてあります。金属の展示も今までは撮影禁止だったんですよ」

そうだったのか。あの展示を撮影できたことに、鑑賞した1週間後にお辞儀した。

「ノグチ先生は元々カメラが好きじゃなくて『カメラのレンズを通しても見えないんじゃないの』とおっしゃっていたそうです。石と向かい合うには心の目で感じていただいた方がいいんじゃないかということで、撮影禁止にしました」

すぐに言葉が出てこない感嘆の時間が生まれた。
なるほど。確かにあのフロアではみんなレンズで見ず、自分の目で作品と向き合っていた。私もそのおかげで想像できることが増えたのかもしれない。

「あの、私、今回の展示で好きな石に出会えたんです」

「そうですか!それは嬉しいです。ありがとうございます。状況が落ち着きましたら、ぜひ香川にもいらしてください」

「実家が兵庫県なので、帰省できたら伺おうと思っていました。楽しみにしてますね」

「ありがとうございます。実は昨日まで展示の片付けで上野にいたんですよ。もう一度回れて展示を見ることができました。牟礼の美術館でもお待ちしてますね。この度は展示にお越しいただきありがとうございました」

ニューヨークにあるイサム・ノグチ庭園美術館の展示が多かったため、牟礼の方にとっても今回の展示は貴重だったんだなとその言葉でわかった。電話の向こうのこの方の声から、作品への想いが伝わり、それを自分も鑑賞できたことを考えると、なんだか少し背筋が伸びた。

作家の軌跡を辿り、展示空間に合うよう構成された音楽を聴きながら、自分がただありのままに感じたことを大切にしようと決めて展示の順路を歩き、気になっていた疑問も直接の声で解消された。こんな贅沢な鑑賞体験をしたのは初めてかもしれない。

『イサム・ノグチ 発見の道』が私にとっての発見の道を作ってくれた。

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おさない えりか
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