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ドラマ『親愛なる僕へ殺意を込めて』感想

最終話を観終わった時、充足感が心に満ちているのを感じた。この痛みに満ちた物語の最後に吹き抜けた、あたたかい希望の風。おもしろいドラマだった。涙でべしょべしょになった顔を、洗いに行った。

普段あまり連ドラをリアタイして観ることがない。原作の漫画も読んだことがない。山田涼介さんが出るから、観ようと思った。観てよかったと思う。
二転三転する先の読めない展開に翻弄され、一週間前の自分には想像もつかなかった真実を突きつけられ、今まで信じていたものがすべてひっくり返っていく様を見せつけられる快感。LLはエイジの父ではなかったし育ての父は殺人鬼だったしエイジは作られた人格だったし京花ちゃんはLL信者だったし桃井さんと猿渡監査官は重たい罪を負っていた。もう一度一話から観てみると、すべての台詞の受け取り方が、違ってくる。

◆ 人生の痛みから逃れようとして、居場所を探した者たちの救済を描くドラマ

本作は「拷問殺人鬼LLの正体は誰か」がひとつの大きなミステリーになっており、それゆえに凄惨な拷問シーンが幾度か放映された。世の中にはそうしたグロ描写が好きな層も一定数いるのだが、私は、このドラマが単にセンセーショナルなグロ描写自体を売りにしているんだったら嫌だな、と思っていた。つまり、なぜこの物語で起こった事件が、強盗殺人や誘拐殺人ではなく、「拷問」殺人でなくてはならなかったのか、に理由が欲しいとずっと思っていた。
だが、その心配は杞憂に終わった。
この物語は終わってみれば、人生の痛みから逃れようとして、居場所を探した者たちの救済を描くドラマだった。最初から最後まで、「痛み」を核とした物語だったのだ。

まずはエイジ。殺人鬼の息子としていじめられ、その痛みから逃れるために、別人格を生み出す。
それからナミはじめクラブの女の子達も、苦しみに満ちた人生を送り、居場所を失った存在だ。だが最後にナミは、エイジのおかげでアクセサリーショップという新たな居場所を獲得した。
浦島亀一。痛みを感じる能力が欠落し、彼はこの世界に居場所がないと感じていた。他人の痛みを感じる能力は、他人への共感能力と言い換えることもできる。他人の痛みを自分のもののように感じることで、彼は世界と繋がろうとしたのだろう。だが彼の望んだ「息子から殺される」という救いが与えられることはなかった。大きな罪を犯した人間には、相応の報いが待っている。
そして京花ちゃん。虐待された過去を持ち、痛みを感じないように生きてきた。自分を救ってくれたLLの信者となり、エイジを自分にとって都合のいい存在にしようと画策する。だが、最終的に彼女を救ったのは、「八野衣エイジ」の生み出した別人格、この世に存在しない「浦島エイジ」だった。彼女はただ、愛されたかった、存在を認められたかっただけなんだと看破したエイジの、最終話の圧巻の演技は、何度観ても涙が止まらない。

「君がしてくれたことがすべて嘘だったとしても
僕は君を恨んだりしないことくらいしか、してあげられない」
「君が僕に死んで欲しいなら、僕は死んであげることくらいしかしてあげられない」

愛する人を救うためなら、なんでもないことのように自分の命を、すべてを差し出せる。そんな優しい優しい人間の流す、澄み渡った綺麗な涙に震えてしまった。
私は山田涼介さんのこういう、綺麗で純粋で、儚い命を生きる尊い人間の演技が、とても好きだ。『燃えよ剣』で彼を知った時から、こんな現実離れして、心まで透明で美しい人間を表現できるのは、彼しかいないと思っている。役と役者を直接的に結びつけて考えるのは良くないことだ。でも役者によって役の味わいや趣が変わるのもまた事実である。だとすれば山田涼介さん演じるエイジの純愛にこれほどまでの真実味や美しさを感じることができるのは、役者・山田涼介の持つ資質、その心根の美しさのおかげにほかならないのではないかと、想像する。
浦島エイジの、胸を打つ、偉大なる優しさ。だがこの優しさこそ、彼女が出来損ないと呼んだ偽りの人格のものであり、彼女はその偽りの人格に、嘘をつき続けて偽りの愛を注いだ。だがその嘘が浦島エイジの心を救い、居場所を与えたことは真実で、今その浦島エイジが、京花ちゃんの心を救ったことも、紛れもない真実だ。
刑務所のなかで、金木犀の香りを目を細めて楽しむ京花ちゃん。一話の、彼らの出会いのシーンにも金木犀はあった。その甘い香りは京花ちゃんのなかでいつでも、エイジと過ごした幸せな日々と密接に結びついているはずであり、エイジ亡き後も彼女を生涯、救い続けるのだろう。

「親愛なる僕に殺意を込めて」

ドラマタイトルは、愛の言葉だった。
エイジが京花ちゃんを救うために、自分自身を殺すという意味だったのだ。

◆果たして、エイジだけが二重人格だったか 人間の表と裏の面白さ

自分は二重人格で、自分の裏の人格が、知らない間に人を殺しているらしい。

本作の冒頭はこのような衝撃的な展開から始まるが、この二重人格設定が単にミステリーのトリックとして機能しているにとどまらないところに、魅力がある。 
作中、「浦島エイジ」の人格は本当は偽りだったことが判明する。さらに、片方の人格がもう片方の自分の人格を完全にコピーして成り代わったり、二つの人格の境が曖昧になったりもする。
自分を規定していたもの、アイデンティティが揺らいでいる状態の人物は、文学的にも非常に面白い題材だ。私は途中から、まるで夢野久作『ドグラ・マグラ』の世界ではないか、と思ったこともあった。そう、あの読むと気が狂うとされる世界三大奇書に数えられる探偵小説。精神病棟に入れられた主人公は自分の記憶を失っていて、名前すらも覚えていない。いったい自分は何者なのか?そこに大学教授が現れてあらゆる資料を見せられるうち、殺人事件の犯人は自分ではないかと、主人公は自分を疑い始め--
またドラマの前半の展開は、私の大好きな小説、伊坂幸太郎『重力ピエロ』をも彷彿とさせた。この小説には連続強姦魔の息子が登場するのだが、"人を、その人たらしめるのは、遺伝か環境か"がひとつの大きなテーマであった。
さて、『親愛なる僕へ殺意を込めて』も同様に、事件の真相を探る過程が、自分は何者かを探る旅に直結する。
浦島エイジには二つの顔があり、ひとつは優しくて気が弱くてちょっと要領が悪くて、今が楽しければいいやと自分に言い聞かせている普通の大学生。そしてもう一つの人格こそ本物の人格であり、復讐のために生き、そのための不要な要素をエイジに押し付けてきた、B一だ。
この二つの演じ分けが肝になってくるわけだが、山田さんの演技の凄まじさときたら!この作品に山田さんをキャスティングした方は、さぞ「してやったり」とニンマリしていることだろう。
これまで、山田さんの出演作では善良な役を多く見てきた。『グラスホッパー』の蝉は善良とは言えないけれど、善も悪もない、虚無の世界の中でナイフを振るっている人間だと思っている。だから純粋な残酷さや冷酷さを持ち合わせた人間の演技を観れるのは初めてで、山田さんがどんなふうに二つの人格を演じるのか、楽しみにしていた。
その期待を軽く超える、B一のカッコ良さ。山田さんの普段の、透明感を感じる柔らかで綺麗な声とまったく異なる、低くて重みのある男らしい声に心底ビビり倒した。えっ?!同じ声帯から声、出してますか?!しかも無理して出してるかんじもしない。声だけじゃない、目つきも、身のこなしも、エイジとB一ではまるで違う。立っている背中だけで、今B一だな、とわかったシーンもあったし、エイジのフリをしているB一のシーンも、一目瞭然。なんといっても最終回の、エイジが一瞬戻ってきたように笑うB一と、エイジのように笑おうとしているB一、の演技が素晴らしかった。顔の微細な筋肉の動きひとつで、ここまでのニュアンスを表わせるなんて、職人技としか言いようがないし、誰よりもエイジとB一のキャラクターを理解しているからこそ成せる業だろう。山田涼介さんの演技史(?)に必ず太文字で載せて欲しいシーンだった。
あと、温厚で可愛い役の作品ばかりみている山田涼介初心者には新鮮な気づきだったのだが、もともとの顔立ちがとても綺麗で整っているので、クールな役が映える。冷たい美人の役、もっと観たい。正直、B一がカッコ良すぎて中毒になり、サイ編ではB一チラ見せのまま焦らされすぎて、気がおかしくなりそうだった。私の頭のなかは、拷問大好きイカれ野郎と見せかけて、本当は愛する女を救うために命を顧みず大胆不敵な計画を練るB一の妄想で忙しかったし、「俺がおまえを救い出してやる」には痺れたし、バックハグに至ってはあまりにエロかったので感想をツイートすることすらできなかった。だ、だって耳元であんな……囁かれて抱きしめられたら……私なら失神して膝から崩れ落ちている。二本の足でしっかり立ち続けた葉子、あんたはスゲェ。

さて本作では、エイジ以外のキャラクターの、表と裏の顔もまた強烈な印象を残した。
本当の目的を明かした後の京花ちゃんは、前半の清純な印象から一変して狂気を感じさせた。本物のLL、浦島亀一は更に恐ろしい。穏やかで、優しさを感じさせる風貌を豹変させることもなく、そのなかに「痛みを感じられない哀しみ」を滲ませており、これぞ本物のサイコパス、といった貫禄があった。
個人的に興味深かったのは、八野衣真に関する描写だ。当初殺人鬼だと思われた彼は、本当は濡れ衣を着せられていただけで、息子想いの優しい父親だった。と、B一は思っているし、視聴者としてもそう信じてあげたいところである。だが、クラブの女の子の脱出を手助けしてあげていた真のことを、浦島亀一はこう言うのだ。

「お前の思うほど、あいつは良い人間でも、良い父親でもなかった」

私はドラマを観ていて、しみじみと思うのである。

"本当の自分"って、いったいなんなのだろうかと。

エイジ/B一は、善性と復讐心という相反する性格をふたつの人格に振り分けているけれど、本来人間というものは善も悪も、ひとつの人格のなかに住まわせている混沌とした存在だ。桃井刑事と猿渡監査官などがその良い例で、警察として正義を貫きたい心と相反する、人への情や心の弱さが彼らの心を引き裂き、縛り付けて、悪い方、悪い方へと転がっていった。二人とも、決して悪人ではなかったけれど。
ひとは他人に対して「こうあって欲しい」というフィルターを通して、人物を評価しているのではないかとも思う。
B一が、父親は殺人鬼ではないと固く信じていられたのも、父親に優しくしてもらった記憶があるからだ。彼の思い描く父親像は、ある種の願望であり、祈りである。
また、ひとは自分に対しても、「こうあって欲しい」という願望を抱く。例えば自分の嫌な側面は、普段は自分の目には映らない。他人に指摘されてはじめて気づくことが多い。今の自分が嫌いで、理想の姿に近づこうと、自分を変えることもある。
本当の自分、なんてものは日々、変わり続けるものなのだ。
そう考えていったとき、ふと想像した。B一が「自分の父親は殺人鬼ではない。優しい人間だった」と信じ続けてきたのなら、彼の作り出したエイジという別人格が、まるで父のように優しい人間だったというのも納得なのではないかと。エイジという人間は、B一にとって、"本物の父親の姿"であり、"こんなふうな人間になりたい"と願った理想の姿なのかもしれない。
復讐に生きたB一を、亀一は「自分の血の繋がった息子のように思っている」と表現し、嘘の人格であるエイジの方が、実の父親にそっくりの優しい人間であるというのは、なんと皮肉な設定だろうか。
本当のエイジであるB一にとって、造られた人格であるエイジは、意味のない不用物。だが、果たしてエイジは本当に偽物の、実体のない存在だったのか?
B一が切って捨てたエイジの人格は、殺人鬼の息子としてあらゆる苦しみを受け止め、乗り越えようとして生きてきた。困っている人を放っておけないお人好しは、京花やナミ達の人生を救った。そんなエイジの人生そのものに、ナミは意味を与えようとする。エイジはその意味では、確かに"生きて"いるし、偽物でも架空の存在でもない。最終話、京花ちゃんに対してB一が言い放った「死んだ人間は元に戻らない」も印象深かった。偽の人格に対して「死」の概念が生じるほどに、エイジは確かに生きていたのである。
エイジを失った京花ちゃんの慟哭が、胸に突き刺さる。私にとってもいつの間にか、エイジはとても大切な存在になっていたのだ。あの明るい笑顔、柔らかな話し方。少し頼りないけどどこまでも心優しいエイジが永遠に喪われてしまうなんて。涙が止まらなかった。

だから最後の最後に、B一がエイジみたいに耳を触ってくれて、たとえエイジという人格は死んでしまっても、またいつか、私達の愛したエイジらしさには出会える日が来るのかもしれないと、希望を持つことができたのだった。
だって人はいつでも、どのようにでも、変わることができるのだから。

親愛なるエイジへ感謝を込めて

素敵な物語をありがとう。

(2022.12.16執筆)


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