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映画『響け!情熱のムリダンガム』感想


音楽の素晴らしさ、伝統文化の継承と革新、差別との戦い、恋愛、青年の青春と成長。わずか132分のなかに、なんと多彩なエッセンスの入った贅沢な映画だろうか。心の底から、観に行けてよかったと思える素晴らしい作品。替えのマスクを持っていなかったことを後悔するくらい、涙がずっと止まらなかった。ピーターの味わう苦難、ピーターの感じる幸福、そしてピーターを突き動かす熱い情熱。それらが自然と、私の心を揺り動かして、気づいたら涙がボロボロと出ていた。

この映画は、観る人によってフォーカスしたい部分がさまざまなのではないかと思う。このnoteでは主人公、ピーターの内面的成長と差別との戦いに焦点を当て、感想を記していきたい。

◆ピーターの、自分探しの旅

映画冒頭に描かれる、ピーターの"推し活"。タミルの大将ヴィジャイ、といえば私のような、インド映画の世界に触れ始めてまだ日が浅い、レベル0.0001のような人間でも名前と顔は知っているくらいのスーパースター。彼の映画公開に向けて看板を立て、初日初回を狙って映画館に向かい、紙吹雪の舞う映画館で心の赴くままに踊りまくる。なんって楽しそうなんだろう、私もチェンナイに行ってこの光景を直接見てみたい、パッションを浴びたい!と思ってしまう。
FC会員として精力的に活動もし、推しのために粉骨砕身、その身を捧げて生きるファン達。私自身も某アーティストに熱中し、彼らのことを「私の宗教、私の神」とまで憚りなく言うようなタイプのオタクなのだが、ピーター達の在り方は、なんかもう気合いが違うというか、本物の信仰心に近いんじゃないかという印象を受けてしまった。(日本とインドとでは俳優とファンの関係性に、大いなる文化的な差異があるような気がしてならないので、このあたりをもう少し勉強したい)
ゆえに、ピーターの序盤の身の持ち崩し方は、推しに依存しているという悪いオタ活の見本のようであると言わざるを得ない。
だって、推しを応援するためにはきちんと生計を立て、自立した暮らしを送らなければならないのに、無職でどうするんだピーター!神様(推し)は、辛いときに精神を支えてくれるし、生きる喜びも与えてくれる。だけど自分の人生を生きるのはほかでもない自分で、神様が仕事を与えてくれるわけでも、食べ物を食べさせてくれるわけでもないのだ。
自分は大将のFC会員だ、とサラに胸を張ってみせるピーター。誰かのファンであることでしか自分を語れないのは、なんだか、寂しい。サラは彼を犬に喩えるが、秀逸な表現だと思う。映画俳優、女の子、そしてムリダンガムの師匠。彼はずっと、自分の好きという情熱に真っ直ぐだけれど、そこには「好きなものについていきたい」という盲目的な、幼い憧れしかない。そして憧れている人間とは、人は対等になれないのだ。神のような存在として崇拝するのが映画俳優ならまだわかるけど、その盲目さが恋愛にまで及び、彼女と同じ道を歩もうとするのはあまりにも、"自分がない"のではないか。
そこでムリダンガムと出会い、音楽の道に進み始め、ようやく己の道を見つけたピーター。だが理不尽な目に遭い破門され、師を失い絶望する彼に、サラが言葉をかけるシーンが美しく、忘れられない。

「どうして師匠に拘るのか」
「この世界にはリズムが溢れているのに」

ピーターはこれまで、ヴィジャイやサラにそうだったように、師匠に惚れ込み、彼に着いていくことを第一の目的として生きてきた。つまり外部の人間に、依存して生きてきたのだ。だが、サラの言葉でようやくピーターは、自分自身の内面に向き合い、誰かの後をついていくのではなく、ただ、己のリズムへの欲求の赴くままに、自分が主役の物語を歩み始める。
一回り大きく成長したピーターは、ラストシーン、師の教えと期待に背き、旅で得た経験をもとにした自分なりのムリダンガムの演奏を披露する。このシーンの、カタルシスといったら!
伝統を革新し、新たな世代に受け継ぐピーターの演奏は、作中のテレビの観客だけでなく、間違いなく映画を観ているすべての人の心を鷲掴みにするに違いない。ムリダンガムの、腹の底から興奮の湧き上がる低音と、華やかで心浮き立つ高音のハーモニー。ひとつの楽器からこんなに多彩な音色が出るのかとびっくり。歌が主役、打楽器は伴奏にしかなれない、と師匠は残念そうに言っていたけれど、あのラストの演奏シーンは、劇伴はなく、ムリダンガムの音色と観客の手拍子だけで構成され、圧巻だった。まさに、リズムが主役になったのだ。
エンドロールでは、女性シンガーと共に演奏しているピーターを観ることができて良かった。伝統や差別を超え、彼らしく自分の人生を生きる姿が、とても眩しく見えた。

◆差別との戦い

「君たちの時代が来たのだ」

というような(あまりにもセリフうろ覚え)、師匠の台詞で、涙腺が爆発した。

この一言は、ピーターがムリダンガム演奏者として一人前になり、自分の人生を歩み始めたことも、伝統を打ち破り新たなムリダンガムの時代を作り出す旗手となったことも、そして今なお残る差別に打ち勝ったことをも意味している。

師匠ヴェンブは本作において、あらゆる意味でピーターが超えるべき壁であった。そのひとつが、身分差である。
カースト上位者と被差別者の深い溝は全編にわたって幾度も描かれるが、とりわけ印象深かったのは、ピーターがせっかくルドラクシャを拾ったのに、水で洗われてしまうシーンと、(その菩提樹の実を師匠に与えられたときの、ピーターのリアクションにも胸が締め付けられる。まるで神が自ら贈り物を与えてくれたかのような表情ではないか)と、「おそばに行ってもよろしいですか?」の挿入歌。こんなにムリダンガムのことが、師匠のことが好きなのに、才能だってあるはずなのに、決して入門を許されない。遠くで見ていることだけが、自分に許された唯一の行為。「そばに行く」、たったそれだけのことに、差別される人間の切ない願いが込められており、号泣してしまう。
なお、この挿入歌は師匠に入門を認められ、今度は演奏会に出ようと言われて練習に励むシーンにも使用されている。同じ歌を使用することで、「そばによれた」、もっと師匠の音楽に近づいていきたいという状況と、かつての状況との対比を鮮やかに描く。そしてもっといえばピーターの、今度は自分の演奏をたくさんの人に届けたい(=そばによりたい)という、願いを込めた歌に変化しているようにも感じられた。
また本作を語る上で外せないのは、父の故郷でのシーンの挿入歌「我々の時代はいつくる?」だろう。
皮がなければ太鼓は演奏できない。なのになぜ、彼らは演奏することが許されず、穢れた存在として差別され、生活に苦しまねばならないのか?理不尽な仕打ちを受ける人々の、それでも逞しく生きる姿が胸を打つ。
曲と共に、彼らは打楽器を叩き、音楽を奏でる。リズムに乗って身体を揺らし、踊る。どんな人間の心の中にも、音楽は、リズムはあるのだ。音楽に、身分の上も下もない。そんなことを思わせる挿入歌だった。
その歌へのアンサーが、バラモン出身の師匠からもたらされるという感動。この映画では何度も涙腺崩壊ポイントが訪れるのだが、ここでも勿論、べしょべしょに泣いた。
本作に限らず、インドの映画を観ていると必ずぶつかる、カースト制度という言葉。これをきっかけにちゃんと学んでみたいという気持ちも芽生え、良いきっかけになったと思う。

最後に。この映画は、本作に惚れ込んだ方が配給権を得ての上映とのこと。素晴らしい映画を届けてくださってありがとうございました。


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