映画『ジガルタンダ・ダブルX』感想
"とにかく、ヤバい映画。絶対観てほしい"
そんなふうに言われる映画は星の数ほどあるけれど、観た人がいちように熱量高く、口を揃えていう映画ともなると、数は限られてくる。
私は本作についてそんな前評判だけを耳にして期待値高く、映画館に足を運んだ。
念のため、ハンカチを持っていて良かった。衝撃のクライマックスを迎えたとき、滂沱の涙を流していた。
◆ヒーローだからヒーローを演じられるのか
ヒーローらしく演じるからヒーローになれるのか
極悪非道のギャング・シーザー。
彼を主人公にした映画の撮影によってシーザーの暗殺を試みる偽映画監督・キルバイ。
この二人の関係性の緊張感と変化が、本作のひとつの見どころである。
はじめは任務としてシーザーを撮影していたキルバイは、やがて映画の撮影そのものに取り憑かれていく。いやカメラを通してシーザーという男そのものに、惹かれていったのかもしれない。シーザーを殺さなければならない、その期日は刻々と迫るのにキルバイは、彼を殺す絶好の機会を幾度も逃し続け、映画の撮影続行を優先させる。
映画という芸術は、虚構を創り上げる魔術である。その魔術によって生み出されるもののひとつが、ヒーローである。
俳優の演技力と鍛えられた肉体、練られた脚本、優れた撮影技術やカメラアングル、効果的な照明と音響、精緻な編集。それらが総合されることで、観客の心を震わせるかっこいいスーパーヒーローが銀幕に登場する。
観客は歓喜する、たとえ虚構の存在なのだとわかっていても、映画の魔法にかけられている間、ヒーローは確かに"実在"するのだ。
いないものを、いるように見せるという魔法。
その威力をインドアクション映画ファンはおそらく、誰よりも痛感しているに違いない。なにせインドアクション映画ほど、ヒーローをかっこよく演出し、観客を熱狂させることに長けた映画はない。本作でも極悪非道のギャング、シーザーの登場シーンは、頭を抱えたくなるほどカッコよかった。
キルバイ、いやレイ先生は自ら映画を撮影するうちにその魔術に魅入られていった。映画という芸術の虜になった。暗殺という本来の目的を見失いかねないほどに、カメラの中に立ち現れるシーザーというヒーローに夢中になった。S・J・スーリヤの、臆病な警察官がやがて本物の映画監督になっていく演技は必見である。これぞ、芸術に選ばれた男の顔をしている。
いないものを、いるように見せるという魔法。
それに取り憑かれたのは、なにもレイ先生だけではない。シーザーもまた、ヒーローを演ずるうちに、その虚構の魔術に取り込まれていく。
彼はヒーローだからヒーローを演じられるのか
ヒーローらしく演じるから、ヒーローになれたのか。
きっとどちらも、正しい。
ギャングをやってきたシーザーは中盤、貧しい民を救うヒーローになれと言ったレイ先生にはじめから諸手を挙げて賛同したわけではない。しかし民を救う台詞を言わされ、民を救うヒーローを演じた結果が村を救えた時に彼は、役にのめり込み始めていく。でも本心では、自分はただの役者に過ぎないとも思っているから、いよいよ追い詰められ、村を潰しにくる警官相手に徹底抗戦するかいなかの決断を迫られたとき、弱音を吐く。そんなシーザーを勇気を与えたのが、レイ先生が彼に与えた、ヒーローという役だったのではないか。
一方シーザーの妻は、彼はあることをきっかけに道を踏み外したがもともと高潔な人間であった、映画が彼を救ってくれるのではないかと語る。つまりレイ先生がシーザーにヒーローを演じさせることで、彼本来のヒーロー性を炙り出し、真実の姿を虚構の中に立ち表せたということもできよう。映画は確かにいないものを、いるように見せるという魔法だが、俳優の本質をもまた白日の元に晒す芸術である。(シーザーを演じたラガヴァ・ローレンスの演技は、粗暴さのなかにシーザーの持つ本来の優しさと英雄性を感じさせ、素晴らしかった。シーザーが映画後半から本当に英雄となれるのは、彼の演技力の賜物でもあると感じる)
虚構と現実が表裏一体となる、映画そのものの持つ構造がシーザーとレイ先生のカメラを通じた関係性と、そのまま重なる二重構造。
インタミ前、八ミリカメラと銃口を向け合う、レイ先生とシーザー。情緒がおかしくなるほど最高構図。
彼らは本来敵対しているはずなのに、映画に魅入られた共犯者でもある。
命を賭けて、殺し合い、映画を作る。
なんだこの二人は。ヤバすぎる。
◆ヒーローの功罪と、非暴力の武器・映画
本作にはクリント・イーストウッドやサタジット・レイ、『ゴッドファーザー』など実在の映画や映画監督が数多く登場し、オマージュが捧げられる。
クリント・イーストウッドは『荒野の用心棒』『許されざる者』などで名を馳せたハリウッド俳優である。長いキャリアの間にさまざまな作品に出演したが本作では特に、西部劇に登場し、かっこよくハンドガンを撃つ名優として描かれる。
サタジット・レイはインドの名監督。黒澤明と並んでアジアを代表する映画監督とみなされ、彼のデビュー作『大地のうた』は、インド映画が世界的に注目されるきっかけとなったのだそうだ。
本作にてシーザーがクリント・イーストウッドに焦がれ、彼になぞらえられることには大きな意味があると、私は考えている。
クリント・イーストウッドはハリウッド俳優、いわゆる白人である。
対してシーザーはタミルの人間で、肌が黒い。作中で色黒のヒーローなどいないと言われているが、現実のインドでもいまだ肌の色が白ければ白いほど良いと考えられ、ヒーローやヒロインは肌が白く、悪役は肌が黒いとされる傾向にある。日本人にも美白信仰はあるが、インドのそれは貧困や差別へと繋がる根の深いものであるようだ。(このあたりはインド社会に詳しくないのであまり深くは触れないでおく)
そんな状況のなかで、地元じゃ誰もが恐れる極悪非道のシーザーはクリントに憧れ、しかしおまえはヒーローにはなれないと仲間うちからすら嘲笑われているのである。
強烈な白人(=肌の白いヒーロー)への憧憬、しかし彼らにはなれないという絶対的な差別が、そこには存在する。
本作の後半パートの主な舞台であるシーザーの故郷の森では、凶悪な民族による象の乱獲が行われ、象を神として崇める村の人々も殺されている。さらに乱獲をとめるために来たはずの警察は、村の駐留地で村人達を虐待しているのだった。悪役は象を狩るシェッターニであり、悪徳警察であるかに思われたのだが、実は彼らを裏で操り、巨大な権力を得ようとしている政治家がいる。さらに本作が1970年代前半のインドを描いており、当時象牙が日本含め世界各国に輸出されていたこと(象牙の国際取引が禁止されたワシントン条約は1989年に締結された)を考えると、シーザーの故郷の村人達が幾重にもかさなる搾取の構造の底辺で苦しめられていたことがわかる。
そもそもインドという国自体、イギリスの植民地として長らく苦しめられてきた歴史を持つ。
こういった文脈を踏まえると、ヒーローになりたいシーザーに手を差し伸べ、サタジット・レイの弟子を名乗ったキルバイが、タミル映画界初の"色黒の"ヒーロー映画を撮るという台詞が、胸に迫ってくる。虐げられてきた者たちの悲願が、そこには確かに、込められている。
だがこの映画の凄みは、武器を手に取り敵を成敗するヒーローという概念を、単純に称揚しないところにあるといってもよいだろう。
ヒーローは人の心を明るく照らす太陽のような存在で、その眩しさを人々は時に、崇拝の対象としてしまう。
ゆえに人気映画俳優は政治家になり、人心を掌握し、票を集めている。現実のインド社会でも政治と映画の世界は密接に結びついているのだから、本作は政治と映画界の切っても切れぬ腐敗した関係に鋭く切り込んだといっても良いのかもしれない。
敵を蹴散らし、銃で人を殺す人間が、真のヒーローか?
自分達は映画という魔法の作り出すヒーローに、ただ踊らされているのではないか?
西部劇でかっこよく銃をぶっ放すクリント・イーストウッドに魅入られたシーザーに、クリントから贈られたのは武器ではなくカメラだと教えたレイ先生。
極悪非道のシーザーに、暴力ではなく映画という武器で立ち向かったレイ先生。
自分達を虐殺しにくる警察達に無抵抗を貫き、自分達の生き様をフィルムに残すことで闘ったシーザーとレイ先生。
本作が真に描きたかったのは映画という非暴力の、搾取や差別と闘いうる力であり、人間の善性への希望であり、祈りである。
シーザーの最期を見届けたレイ先生が、撮影を止めるワンシーンには、震えた。
八ミリカメラってほんとに、銃の引き金みたいな構造があるんだね……映画という武器、その言葉は伊達ではなかったし、その引き金から指を外したレイ先生は本当に、戦場で散った盟友を悼み武器を下ろした戦士そのものだった。
シーザーは、最期のひとりになるまで気高く太鼓を叩き続けた。もしレイ先生が戦場に残っていることに気づかなかったら、そのまま正面から弾を受けて死んでいただろう。ヒーロー映画の出来としては、そのほうが完成度は高かったかもしれない。
だがレイ先生が自分を撮り続けていることに気づいた彼は敵に背を向け、必死に逃げろと呼びかけるうちに死んでしまった。そのヒーローとしての不完全さが、シーザーという人間の優しさが、カメラに収められたことにこそ意味があるような気がしてならない。
フィルムに刻まれたひとりの男の生き様は、この世の真実は、映画という形で大衆に届けられる。
映画の届ける感情は、どんな権力者にも消すことはできない。心に灯った火はどんな武器より強力な熱となり、人々を奮い立たせることができる。たとえ暴力が人の命を奪おうともその情熱は、人々に語り継がれる限り途絶えることはないだろう。
"芸術は不滅だ"
『ジガルタンダ・ダブルX』がこんなにも観るものを熱くさせるのは、映画や芸術を愛する者に刺さるのは、この一言に強い強い信念が込められているからなのだろう。
(2024.9.14鑑賞)
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