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三人称単数の俳優が自死

「人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ」

村上春樹『ノルウェイの森』より

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 ふと、今日が何かの記念日である人がどれだけいるだろうかという考えが頭に浮かんだ。誕生日、結婚記念日、昇進、引っ越し、その他諸々の個人的な記念日の話だ。
 ちなみに私にとって2020年7月18日は「大好きな作家の新刊が出た日」というとても重要な記念日だった。サムネイルからも分かる通り、村上春樹の6年ぶりの短編集『一人称単数』が今日全国で発売された。

 村上春樹は私にとって特別な作家で、中学生の頃に『ノルウェイの森』を読んでいなかったらたぶん今の自分はないだろうと思うくらい影響を受けた作家だった。本の形になっているものはもちろん全部買って読んだし、その他にも雑誌などに掲載されている文章まで片っ端から読んでいる。

 当然今回の『一人称単数』に関しても、その発売が知らされたときから今日まで今か今かとその発売を待ちわびていた。
 実際のところ『一人称単数』に収められている8編のうち、書下ろしの表題作以外は全て文學界に掲載されたタイミングで読んでしまっていたのだが、それでも改めて1冊の本にまとめられたそれらの作品を読むことをとても楽しみにしていた。

 そして、いざ『一人称単数』を手に取ってページをめくってみると期待を裏切らないだけの充実感があった。
 小説を書く上で人称とは非常に大切な要素であることは言うまでもない。『風の歌を聴け』で「僕」という一人称を使った村上春樹は、その後『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』、『1Q84』などで複数の一人称を同時並行で書き上げる方法を用いていた。その結果一人称ではどうしても書き表すことの出来ない表現の限界を超えて、物語により奥行きを与えることに成功していた。

 ものすごく簡単にまとめてしまったが、そのような「発見」をした村上春樹がこのタイミングでわざわざ『一人称単数』というタイトルで短編集を出す理由が非常に気になった。

 昼過ぎに家を出て紀伊国屋書店に行くと、大きく展開されていた『一人称単数』を手に取って足早にレジへと向かった。ようやく店員から本を受け取ると、そのまますぐに駅前にあるベローチェへと足を運び、席に着くとすぐに1篇目の『石のまくらに』を読み始めた。

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 そのニュースが目に飛び込んできたのは『石のまくらに』を読み終わり、コーヒーを飲みながら感想をまとめていたときのことだった。メモを残すためにスマホを立ち上げ、そのついでにTwitterを開くとありとあらゆる人がその「三人称単数の俳優の自死」について触れていた。
 彼はあまりにも有名な俳優であったし当然のことだった。私自身も熱心なファンではないものの、彼の出演する番組や映画をいくつかみていたし、若くしてその才能が失われてしまったことに驚きを覚えた。
 そのニュースが私に与えた衝撃は大袈裟なものではないものの、無視することのできない種類のものだった。

 気を取り直して再び本を手に取った私は物語から「死の雰囲気」のようなものを感じ取らずにはいられなかった。実際、『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』では自殺する登場人物も出てきた。
 そのようにして、私の『一人称単数』に対する記憶は「三人称単数の俳優の自死」と固く結びつけられることになった。

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 表題作の『一人称単数』は「私」という一人称単数の視点で進んでいく短い物語だ。
  普段スーツを着ない「私」はふと思い至って2度しかそでを通していないポール・スミスのダーク・ブルーのスーツを取り出して着ることにした。しかし、なぜか自分のスーツ姿から一抹の「後ろめたさ」を感じてしまう。その「後ろめたさ」の正体が分からないまま「私」は家から少し離れたバーに向かい、1人でウォッカ・ギムレットを飲みながらそれほど面白くないミステリー小説を読むことにした。
 知らない女性に絡まれたのは、やはり鏡にうつる自分のスーツ姿に違和感を覚えているときのことだ。女性は突然「私」に話しかけると、3年前に「私」がしたその女性と彼女の友達に対する「ひどいこと」を責め始めた。「私」には思い当たる節がなく(そもそもその女性が誰なのかすら分からない)、ただただ困惑することになる。
  結局「私」は女性に「恥を知りなさい」と言われたところで耐えられなくなり、逃げるようにしてそのバーを出てしまった。

 その後、「私」は女性に対して腹を立てることもできず、彼女が言った「具体的でありながら、同時にきわめて象徴的」な発言に頭を悩ませた。
 「私」は彼女の発言によって、自分自身が持っている「自分」に対するイメージの不確かさに気づかされてしまうのだ。

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 恐らく誰にでも多かれ少なかれ自分自身が思う「私」のイメージと、周囲の人間が抱く「私」のイメージとの乖離を自覚したことがあるのではないだろうか。それを自覚するタイミングはそれぞれであるが、共通して言えるのはそのような感覚はときとして非常に致命的な意味を持つということだ。

 俳優という職業は、恐らくそのような感覚に常に晒され続けることを意味するのだと思う。もちろんこれはただの想像でしかないし、ましてその想像の上に積み重ねた仮定は「ある人の死」を無許可に消費する行為に他ならない。

 しかし、そのことを自覚していてもなお、私にとって「大好きな作家の新刊が出た日」であったはずの今日に起こった「三人称単数の俳優の自死」についてそのような想像をしないわけにはいかなかったのだ。

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