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塀のない刑務所(大井造船作業場)②

 私の刑期は6年、罪名は強盗致傷、重罪である。
 バブル崩壊後、高卒から務めてきた会社は倒産、地方の不況はただならぬもので、高卒で社会に出た時はまだ景気のいい時だったので、仕事が無くなるなどと、思ってもみなかった。
 転職した会社も倒産し、家のローンの支払いもままならなくなり、お金に困ったあげく、民家に入り込み住人に傷を負わせ、その場で逮捕された。

 これまで塀の中で過ごした約一年の中で私は、塀の中では『何も出来ない、何もしてやれない』事を知った。
 どんなに自分の犯した罪と向き合い、悔い改め、真面目に刑務作業に服しようが、もちろんそれは、罪を犯した者にとってあたり前のことであり、私も、そういう気持ちで過ごしてきたつもりだが、それは自己満足にすぎない事だと気づいた。
 離れて行った妻や子供達に何ひとつ、してやれる事がなかった。一円の養育費さえ送ってやれない。
『何も出来ない、何もしてやれない。』私は塀の中では、死んでるも同然だと感じていた。いや本当に死んでる方がましなのかもしれない。家族にまで自分が犯した罪を背負わせてしまっている。それなのに自分は、塀の中で、塀に守られて生きている。だから一日でも早く出たかった。

 逮捕され留置場にいる時と、拘置所にいる時と、妻は一度づつ面会に来てくれた。
「あんな事をする前に、子供達の顔が浮かばなかったの?」と妻は泣きながら怒った。
「子供達の顔が浮かばなかった」
「子供達の顔が浮かばなかった」
私の罪は、それだけでも重罪だと思う。妻の言葉がいつまでも残っている。
 妻は拘置所での面会の際に、離婚届を差し入れた。当然の事である。
その後面会に来てくれる事はなく、子供達を連れて実家に帰っていった。

 刑務所の平日は、朝八時から午後四時ごろまで、刑務作業で時間を過ごす
私は印刷工場で、薬局の薬袋や不動産会社のチラシを印刷していた。
 刑務作業は、時間に追われる事はない。納期は決まっているが、間に合わないという事はない。もちろん残業なんてない。発注する側も、刑務作業の事をよく知ったうえで、発注するのだろう。おそらくは、金額もかなり安いのだと思う。
 そんな、ゆったりとした刑務作業に、体と脳が慣れていくのが、とてつもなく嫌だった。しかし免業日の様に、一日中舎房の中で過ごすよりは、刑務作業の方がまだ、やる事があるだけましだった。
 作業の終了時間は、入浴日と、そうでない日とでは変わってくる。入浴は夏は週三回、冬は週二回である。
 毎日入れる炊場が、羨ましく思えた。
 また自分の工場が何番風呂かでも、作業の終了時間は変わってくる。一番風呂だと、午後三時頃には、作業を終了してしまう。
 外の世界では汗だくになり、上司や先輩に叱られ、時間に追われ、懸命に生きている人が大勢いて、それがあたり前だというのに、罪を犯した人間がゆったりとした作業で、ましてや三時に作業を終えてしまう。こんな生活でいいのだろうかと考えてしまう、そんな毎日だった。            
 平日には作業を中断して運動時間が設けられている。キャッチボールをする人、グラウンドを走る人、歩きながら話をする人、何もせずベンチに座り束の間の日光浴を楽しむ人、各々が貴重な時間を過ごしている。
 作業中は私語禁止だが、運動時間はそれが許される。その時間を利用して、悪は悪同士で悪の話をするのだなと思う日もあった。
 だから運動時間はオヤジにも話かけやすい唯一の時間だった。ちなみにオヤジとは担当刑務官の事である。刑務所によっては先生と呼ぶ刑務所もあるらしい。
 私はある日の運動時間に、勇気を出してオヤジに聞いてみた、
 松山刑務所の造船所のことを。
 オヤジは全国に転勤移動する上級職員ではないため、そういう施設があるという事ぐらいしか知らなかった。
 私のがっかりした気持ちを見抜いてか「気になるなら調べてみようか」と言ってくれた。
 オヤジは私より一回り以上年上だろう、おそらく50才前後かと思われるもちろん刑務官のパライバシーは守られているので、本当の事は分からない
 担当のオヤジは普段は、顔も口調も厳しいが、時折見せる緩んだ笑顔と、時々掛けてくれる一言が、刑務官らしくなく、嫌いじゃなかった。

 ある日の作業中私は「面接」と言われ、処遇という部署に連れていかれた。
 ちなみに「面接」は「面会」とは違う、「面接」は刑務官との面談の場になる。
 普段、舎房から工場に行く時や工場からグラウンドに移動する時などは、二列縦隊で「イチ、ニー、イチ、ニー」と号令を掛けながら行進するのだが
その時は、私一人だった為号令もなく、普通に歩く事が許された。
 呼び出されての「面接」が初めての私は緊張していた。連行している刑務官は、黙って私の斜め後ろを歩いているだけだった。
 二階建ての建物に入ると、たばこの匂いとコーヒーの香りが強烈だった。
それは、外の世界の空気だった。
 二階の一室に入ると、担当のオヤジより若いが、間違いなく階級は上だと分かる、胸のバッジに金線入りの刑務官が待っていた。
 私はその金線の前に立ち、称呼番号と名前を告げた。
「面接」は松山刑務所の造船所の事であった。
 オヤジが自分の事を話してくれたのだと思うと嬉しかった。
 金線の説明では、そこは松山刑務所の支所になり、
「大井造船作業場」という施設で通称「大井」と呼ばれているらしい。
 そこでの受刑者は、造船所の敷地内にある寮で生活をし、造船所で一般の人と一緒に仕事をしながら、溶接やフォークリフト等の職業訓練を受け、資格取得を目指す施設との説明だった。
 話を聞きながら私の頭の中は「?」ばかりだった。
「寮で生活?」
「一般の人と一緒に仕事?」
「受刑者が?」
 鉄の扉と鉄格子の中に詰め込まれ、私語もままならない今の生活からは、信じ難い話だった。
 しかし金線は続けて「かなり厳しい施設だと聞いている」といった。
金線自身も自分の目で見た訳ではないが「とにかく厳しい」と
やたら「厳しい」を強調していた。
 私は思い切って、正直に質問した。
「仮釈がここより良いのかと、私でも行けるのかと」
 私はこれまでの受刑生活の中で、刑務官は受刑者に対して威圧的で、こちらの質問に対しても、適当な答えや、杓子定規な答えしかしない印象だったが、この時の金線は違った。金線は答えてくれた。
 「仮釈は人によって違うが、早い人だと刑期の三分の一を残して出所した人もいるらしい」との事だった。
 いわゆる3ピンである。
 しかし「現在この施設は募集はしていない」と付け加えながら、
「行きたいのか」と聞いてきたので私は即答で
「行きたいです」と答えていた。
 仮釈の事と同じぐらいに、資格が取れる事に魅力を感じていた。
何の資格も技術も、頼る人もいない私は、出所後の仕事の事が不安だった。その不安も金線に告げた。
 「厳しい施設」という言葉よりも「仮釈3ピン、資格取得」の方が私には断然勝っていた。
 しかし募集はしていない。諦めるしかなかった。

   
    拙い文章を読んでいただきありがとうございます。
    この文章は十年以上前の私の受刑生活の事を書いていますが
    私以外の受刑者の事や、季節や月等々は多少変えています。
    すいません。     

拙い文章ですが、サポートしていただけたら幸いです。