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からっぽ

大人にもなって、からっぽだなと思うことがある。

時間は平等にあったはずなのに、わたしだけなにもしらなくて、なんにも理解できなくて、なんにも寄り添えない時がある。

からっぽなわたしはからっぽなかまがほしい

わたしくらい、わたしより、なにもしらなくてなんにもかんがえてないひと。

そんなひとはたくさんいるけど、そんなひとはすぐ人を傷つける。

ひとのきずをそうぞうできないから、きずつけたことにもきづかない。

そんなひとにはなりたくなくて、でも、そんなひとにわたしはちかくて。

かんがえることをやめたららくになるのに、かんがえないひとにはなりたくなくて。

らくになりたくて、いきてきたのに、らくになるためにいきないほうがいいってきづいてしまって。

みたくないものが、こわすぎて、ふたをして、まえにすすむ。

たまに開くから、また閉じる。

わたしがしぬまで、でてこないで。もう、もういい。

みらいにはまだ希望があふれてて、もうなんの希望も見えない。

希望ってなんだろうか?きっと、また何かを諦めれば、絶望が見えなくなる。

たくさん諦めて、たくさんふたをした絶望が、希望の光を小さくしていく。

開けて向き合うことが、出来るのだろうか。

こどものころに向き合えなかった、小さくて大きな絶望と諦めに、向き合う勇気が、まだ持てない。

にげたい、にげていいのかな、またにげたら、また増えるのかな、絶望が。

逃げ癖がつくとかいう、ごみのおとながいるけれど、間違いでもないのかもしれない

だけど、にげたいほどしんどい人ににげるなって他人が言う権利は無い

自分なら言っていい?そうとも言えない。

こころをまもるために、色んなものから逃げてきたけど、まもられたこころがからっぽになっている時、ほんとうにそれはまもられていたのかな。

わたしは、だれに傷つけられていたのだろうか。
わたし自身なのか、環境なのか、

私をだれが癒して助けてくれるのだろうか。
わたしなのか、環境なのか、人なのか、

敵がわからない時、誰を恨めばいいのだろうか
敵が自分な時、自分を恨んでいいのだろうか

勧善懲悪のわかりやすさに、わたしはもう戻れない。

わかりにくい世界に向き合って、悩まなきゃいけない

私だけのヒーローを信じて、共通の悪を恨んで、そんな人生の人たちが羨ましくて、病む。

思ったより、からっぽじゃないかも。
良かった。わたしまだ、大丈夫だね。

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